2015年04月04日

しのぶ

夜の隙間
まばたきするごと移り変わる景色のなかで
朝を見ぬまま君は
この世へほとりと忘れていった
なにも残さないでと言ったのに
最後のいのちがまだこの舌を濡らしている
静かに
静かに
朝が訪れて
ぼくは君になれなかった息を
飲みこんだ



(2015/03/07~2015/04/03 WEB CLAP)
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2015年03月06日

レニングラード

レニングラードって強そうだね。
そうかなブエノスアイレスだって強そうでしょ。
違うね、ブエノスアイレスはどこかオシャレだよ。
オシャレって言葉がオシャレじゃないけど。
そうだ、そうだね。
ねえ、いつか行ってみようよ。ふたりで。
うん、いいよ。

そうやって笑った君の涼しげなひとえ瞼を
この街へ来て何度思い返しただろう



(2015/02/06~2015/03/06 WEB CLAP)

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2014年09月13日

おまもり

【白と黒のロンド/青のフラット】

どこからこれだけの人が集まってくるのだろう。街のなかに包まれるとサカキはいつも不思議に思っていた。自転車がベルを鳴らしながら走り、その横をバイクと車がすり抜けていく。人々は喧騒のなかで思い思いの時を生きていた。自分もまたそのうちの一人だということが、無性に嬉しくなる。

観光客向けの商店は極彩色のネオンを掲げて、まるで小さな遊園地のようだった。どれもガラクタのようなものばかりだが、小さなストラップを見つけて思わず足をとめた。隣を歩いていたナルオミが数歩先で気づいて振り返る。「どうした」「ああ、ちょっと待っててくれ」サカキは店に入った。

古ぼけたカゴにストラップが盛られていた。「おまもり…」ため息のようについ声を洩らすと、店主は外国人がきたとよろこび、すり寄ってくる。片言で話しかけられるのが面倒で現地語で返すと、急に笑顔がなくなった。「これ、いくら」「書いてあるだろ」「高すぎる。いくら?」

重ねて問うと店主は半分でいいと言った。その場に紙幣を置いて、また雑踏へ戻る。煙草に火をつけて、深く吸い込んだ。見上げた夜空は地上の明るさにすり減っていた。そこへ煙を吹きかける。旅行者と思しき集団が電飾の街をカメラにおさめていた。はしゃいだ彼らとぶつかる。まだ若い女だった。

「あ、ごめんなさい」「どういたしまして」彼女はサカキから発せられた流暢な母国語に驚き、はにかみながら頭を下げた。その仕草が海の向こうで暮らす女とよく似ていた。「写真か。おまえは絶対に撮らないだろうなあ」話しかけても、ナルオミはちらりと視線を返すだけだ。

撮らないなら、撮ってやればいい。サカキは携帯電話を取り出して、ナルオミを呼んだ。いつもどおりちらりと振り向くその瞬間を、自分の姿とともに画面に切り取った。「なんの真似だサカキ」「送るんだよ」「だれに」「…おまえも知ってる女」「ああ…」彼女はちょうど仕事が終わる頃合いだろうか。

メールに一言添えようかと思ったが、伝えるべき言葉が見つからない。サカキは写真だけを添付して送信ボタンを押した。ポケットにしまうとき、指先にストラップが触れた。明日は封筒を買おう、そう思った。
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2013年11月11日

11月11日

 自分の声も聞こえないような騒音のなかにいた。
「ねえ、柚木」
 インカムからマネージャーの声が聞こえた。通路の端と端とで視線を交わす。彼女は昨日の夜と同じ目をして笑った。
「今日はもう上がっていいよ」
「でも俺、シフトでは――」
 都々がそこまで言うと、彼女は口元に人差し指を立てた。声がないまま、家で待っててと口が動く。
「わかりました。お疲れさまでした」
「はーい、おつかれー」
 ひらひらと手を振りながら、彼女は床に落ちた煙草の吸殻を拾って去っていった。
 兄ちゃんこの台全然出ねえじゃねえかと絡んでくる酔っ払いを笑顔であしらい、都々はバックヤードへ戻った。音の嵐から解放されても、耳の奥に残響が流れ落ちていく。インカムを外してネクタイを弛めると、途端に今夜もマネージャーに会うのが億劫になった。テーブルの上に置かれていたポッキーを乱暴に噛み砕き、のろのろと着替えはじめた。面倒なので煙草くさいシャツはそのまま、スラックスをジーンズにはきかえる。ジャケットから携帯電話を取り出して、かわりにポッキーの箱を差しこんだ。
 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。冬の午後六時は人をひどく憂鬱にする。
 電話をひらくとメールがいくつか届いていた。そのなかのひとつは沙々奈からのものだった。
『これからユカちんと映画観にいくよ。おにぃの仕事の近くんとこ(ふかふかでキレイだからお気に入りなの!)……でね、もし仕事なかったら一緒にご飯しよ? お母さん今日は仕事遅くなるらしいんだー。映画、六時半には終わると思うから、返事ちょーだいね! かわいい妹より』
 沙々奈からのメールは絵文字やデコレーションの洪水だ。都々は一切使わないので、おにいっていつもメールで怒ってるよねと言われる。怒ってなどいない。ただ、絵文字では自分の気持ちを伝えられないだけだった。絵文字だけではない。どんな言葉も都々の心を表すことはない。都々自身がそれを望んでいなかった。そもそもこれはあってはいけない思いだ。
 返信しようとした親指がふととまる。マネージャーに家で待っててと言われたことを思い出したのだった。人が増えてきた目抜き通りを歩きながら、都々は雑踏にため息をこぼした。
 ぼんやりと人の流れに流されていると、沙々奈のいる映画館が四つ角に迫っていた。マネージャーの部屋へ行くなら、映画館の手前の細い道を左へ折れねばならない。
 都々は自分の真意から目をそらし、人々の歩みに流された。
『いいよ。映画館前にいる』
 さらに向こうへ行く人のあいだを縫って、映画館へ辿り着く。公開映画一覧をざっと眺めてから、エレベーター前の壁にもたれかかった。行き交う人々は誰も足早で、男も女も、老いも若きも、誰もがさきほどまでの都々のように人波に歩かされていた。誰が作り出したかもわからないスピードを、みなが律儀に守っている。それに反抗するものは見当たらない。だが流れの外へ出てしまうと、ひどく滑稽に思えた。
 なんとしても守らねばならない暗黙のルールなど、はたして本当に存在するのだろうか。
 なんとしても隠さねばならない本当の気持ちなど……。
 都々はポッキーをくわえて、折った。
 視界の端でエレベーターの扉がひらく。六時半にはまだ早い。都々は急に空腹を覚えはじめ、次のポッキーに手を伸ばした。指でつまんでいるのがわずらわしくなり、口にくわえたまま食べた。唇の体温でチョコレートが溶けていく。
「わたしにもちょうだい」
 声に驚いて下へ視線を向けると、くわえていたポッキーに制服姿の沙々奈が食いついてきた。都々はうっかり口をあけてしまい、ふたりのあいだにあった部分が足元へ落ちた。
「あー、もったいなーい」
「びっくりさせんな。それより早かったな」
「うん、エンドロールになったから先に出てきちゃった」
「なに食いたい」
「今日ちょっと寒いからお鍋とかがいいなー」
「んじゃ、居酒屋にするか」
 頭のなかに店をいくつか思い浮かべながら歩き出そうとすると、沙々奈に腕を引っ張られた。
「なんだよ」
「ついてるよ、おにぃ」
 沙々奈は自分の唇を指し、そこを舌でぺろりと舐めた。赤い小さな舌は、黒に近い濃紺の制服とグレーのカーディガンを着た無彩色の彼女に、閃光のような彩りを与えた。
 腕を絡ませてくる沙々奈を払いながら先に人波へ飛び込む。唇を舐めると甘いチョコレートが舌にしびれるようだった。

(拍手お礼)
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2013年10月26日

スパイス

 狭いキッチンにふたり並んで立つと、時おり腕と肩がこすれあった。肌と肌のあいだには互いの汗がまとわりつき、触れながら舐めあっているようでもあった。断罪はそのたびに軽く奥歯を噛みあわせた。
「沙々奈、人参」
「ちょっと待って、まだ全部切れてない」
「無理に大きさ揃えようとするなよ」
 手を休めるとすぐ鍋底に焦げ付いてしまう鶏肉と玉葱を炒めながら、断罪はTシャツの袖口で頬の汗を拭った。キッチンは風が通らず、換気扇も音ばかりで弱々しく、全身から汗が滝のように流れた。火元の前はさらに暑い。
 だが沙々奈の包丁さばきを見ていると、その暑さも寒気に変わる。あまりにも危なっかしく、見ていられない。
「やっぱりおまえが炒めろ」
「う……だ、大丈夫」
 声を震わせながら沙々奈は鮮やかな人参を切り分けていく。その手元が急にぐらついた。あっと短い声がもれる。包丁の切っ先は人参の上をすべり、沙々奈の白い指先を掠めていった。
 断罪の視界に、これまで繰り返してきたいくつもの命の、その終わりの景色が陽炎のように揺らめいた。断罪はたまらず沙々奈の手をとり、傷を口に含んだ。
「お兄ちゃん……」
 沙々奈は驚いたようだったが、拒むことはしなかった。断罪は歯の裏に当たる沙々奈の爪をやわらかく感じながら、舌で指先を包み込んだ。口の中には痺れのように沙々奈の血の味が広がっている。甘く、苦い。沙々奈は息をとめているようだった。その姿があまりにいじらしいので、断罪はそっと指を放してやった。
「気をつけろよ」
「うん」
 もう片方の手で指先を覆いながら、沙々奈は小さく微笑んだ。それはささやかだがたしかな幸福のため息だった。断罪はどんな顔をすればいいのかわからず、眉間にしわを寄せた。
「絆創膏、貼ってくるね」
「ああ」
 喉に残る血の味と、夏の蒸れたにおいが混じって、素手で情動に触れられるような心地がした。そこへ、焼かれたタイヤのようなにおいが分け入ってきた。
 断罪ははっと気づいて鍋の火をとめた。
「あぶね……」
 かろうじて炭にならずに済んだが、今夜のカレーはとても個性的な味になりそうだった。

(拍手お礼)
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2013年05月17日

LOOKING BACK TO TODAY

 他人の目に映る自分は、どうやら必死さが感じられないらしいと気付いたのは、小学四年生のときだった。
 真面目にやりなさいと三十路の女教師に金切り声で怒られても、少年だった関谷は泣くことも怒ることもなく、ただ漠然と真面目に描いたんだけどなぁと画用紙を見おろしていた。
 そこには水で溶くことなく、まるで油絵のように絵の具を塗り重ねられた大阪城が描かれていた。



 就活課をひやかして、図書館に立ち寄り、特に腹も減っていないので学食を素通りすると、他に行く場所は部室しかない。
 大学生活五年目ともなると、友人とつるんだり、授業や提出物に追われたりすることがなくなる。そんなことを現役高校生の弟に話すと、冷たい眼差しでご隠居様と呼ばれるようになってしまった。あながち間違ってもいない。
 子どものころから特別に何かに執着することがないが、人と話したり、喜んでもらうことが好きだと進路担当に話していると、いつの間にか法学部志望ということになっていた。国公立はまったくの惨敗で、ひとつだけ受けていた私立に言葉通り滑りこんで今に至る。法曹界でのしあがろう、ビジネスに活かそうなどという志はなく、入学時には公務員になりたいと思うかもしれないと考えていたが、法学部生五年目になってもそのような気持ちは芽生えなかった。だからといって、他に特にしたいと思えることもない。家業の工場は兄が継いでいるので、親にせっつかれることもない。自分自身の望みのなさも含めてここまで自由だと、いっそ不自由だった。
 ただ、絵を描くことだけは好きだった。絵の具を幾重も重ねているときだけは、我を忘れて夢中になった。
 のろのろと部室まで行くと、扉には南京錠がかかっていた。誰もいないらしい。関谷は鍵をあけて、中へ入った。
 格子のついた窓は開いたままで、五月晴れの目映さが窓枠に染み出している。部屋には日が差さず、打ちっぱなしのコンクリートの床からは春の冷たさが立ちのぼる。肌に触れる空気はメンソールのように涼やかだった。
 パイプ椅子にかけて煙草に火をつける。今日の煙草は兄から拝借してきたのでマルボロだ。優等生ぶったそつのない味に、関谷は目を細めた。
 部室の隅に立てかけられた嶋の絵を見つめる。描きかけの油絵はまだぼんやりとしていて、生まれたての雛のようだ。どこへ向かうのかもわからずに佇んでいる。母である作り手が来るのをじっと待っているのだ。それはなんとも愛しい姿だった。
 思えば最近、あまり絵を描いていない。関谷は机に出しっぱなしになっていた怜平のスケッチブックを逆さにひらいて、いちばんうしろの画用紙に鉛筆を走らせた。何を描こう、どんな構図にしよう。そんなことを考えるそばから、どんどん手が動いていく。描きたいもの、見たいものを探りながら、それよりもっと早いスピードで線が繋がっていく。この手は、きっともう知っているのだ。関谷はそれを知るために、手指の好きにさせる。
 くわえていた煙草から灰が落ち、関谷は描く手をとめた。短くなった煙草を灰皿でもみ消して、スケッチブックを机に置く。そこには近所で鳩じいさんと呼ばれている老人の姿があった。老人は毎朝毎夕、小さな公園のベンチに腰かけて鳩にパン屑を撒いている。ときおり遠くに投げては、右往左往する鳩をにやにやと眺めているときもある。
「ええなあ、あれ」
 鳩じいさんになりたい、かもしれない。できれば今すぐなりたいが、じいさんであるという要件がまだあと半世紀ほどは満たせない。これだけは努力のしようがない。では鳩になればいいのか。いや、それも違う。
 関谷は新しい煙草に火をつけて、乱雑なラフ絵を眺める。今すぐ鳩じいさんになれないなら、せめてこの鳩じいさんに光と色を添えたい。帰ったら、余っているキャンバスに絵を描こう。ひとつ世界を描きあげたら、見えてくる願いがあるかもしれない。
 スケッチブックを閉じて、鞄と南京錠を引っ掴む。
「あ、せや」
 画材の入った抽斗から絵の具をいくつか選び、ありがたやと繰り返しながら鞄に放り込む。そこに大きく「嶋の絵の具!」と書かれているのは、見なかったことにした。

(拍手お礼)
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2013年04月16日

Kiss22・髪(彌夕×青竜)

 かたい弦をはじき、彌夕は顔をしかめた。小さな両手の指には血が滲んで、奥の方からじんじんと音がするようだった。
 だが肝心の珪月からは、濁った雑音しか聞こえない。
 青竜が珪月を持って帰ってきてから、もう二十日が経とうとしていた。それから毎日欠かさずかき鳴らしているが、いまだ音階をなぞることすらできない。
 指先をくわえて血を舐めとる。傷口は塞がる間がなく、日に日に深く裂けていく。彌夕は小部屋を出て、皆が集まる部屋へ向かった。住処は作戦のたびに移動した。おもに自然の洞窟に手を入れて住みよくしている。棚や机などは運びやすいように工夫がされ、周りに比べてまだ幼い彌夕にも組み立てられるものだった。自分で作ったものはやはり愛着がわく。
 岩の裂け目から弱々しい自然光が差しこんでくる。そこから見える空は血で染めたように赤い。斎園の空しか知らない彌夕には、青い空が想像できない。だがもし本当にそんな色が頭上に広がるなら、人はもっと傷つけあわずに済むのではないかと思えた。
 煌々と灯りに照らされた部屋には誰の姿もない。無造作に並んだ木箱のうち、留め具がいがんだ箱の前に座りこむ。どうしても音が響きやすいので出来る限り静かに軟膏の小瓶を取りだし、減ったことがばれないように少しだけ塗りつける。安積が作る軟膏はよく効くが原料がなかなか手に入らないので、久暉や比古の許可なしに使ってはいけないことになっていた。
 あついものを冷ますように息を吹きかけると、すこし沁みる。その痛みが彌夕の罪悪感を軽くした。
 どうしてこんな思いをしてまで。彌夕は自分にそう問いかける。
『弾いてみるか』
 珪月を手渡されたときの青竜の声が頭の中でこだまする。受けとった珪月には青竜の手のぬくもりが残っていて、彌夕はそれが消えないように両腕で強く抱きしめた。力みながらうなずくと、掠めるように髪を撫でられた。言葉はなくとも、頑張れ楽しみにしていると言われたようだった。
 彌夕は傷だらけの手を握りしめる。どうしてなどと問いかける自分の愚かさに唾を吐く。青竜に褒めてもらいたい、それが唯一ですべてだった。
 指先に軟膏を擦りこんで、よく乾かす。せっかくの珪月が汚れてはいけないから。
 瓶を閉じようとすると、手元から蓋が転がり落ちていく。あっと声を洩らしてそちらへ駆け寄り、ついた埃を払う。
 そのとき、砂を踏む音がした。
「何をしてる」
 部屋の入口で青竜が呟く。表情は陰になってよく見えないが、その眼差しが彌夕の持つ小瓶に向けられていることは気配で感じられた。
「な、なんにも」
 彌夕はさっと立ち上がり、小瓶を後ろに隠した。青竜は大股で一気に歩み寄り、その手を掴みあげた。
「これでもまだ白状しないか」
 洞窟の壁のように冷たい青竜の声が、彌夕の心を震え上がらせる。廊下のほうから比古たちの話し声が聞こえる。泣き喚けば誰かが駆けつけて慰めてくれるだろう。だが非難される青竜を見たくもない。
「彌夕、どうなんだ」
 腕を掴まれた痛みのせいか、それとも肌を通して伝わってくる青竜の厳しさのせいか、彌夕の涼しい目元から涙がこぼれた。歯の隙間から洩れそうになる嗚咽を懸命に飲みこみ、彌夕は消えそうな声で言った。
「ごめんなさい……」
「わかればいい。二度とするな」
 小瓶を取り上げることもなく、氷が融けて消えるように青竜の手が離れていく。部屋に残された彌夕は小瓶を元通り木箱へしまい、何ごともなかったように久暉や比古を出迎えた。

 斎園の夜はほのかに明るく、灯りがなくとも目が利いた。夜空には赤みが滲んで、瞼の裏にも忍び込んでくる。彌夕は洞窟から離れた崖のそばで脚を抱えて座り、自分を覆い隠してくれるほどの闇などどこにもない現実を静かに見下ろしていた。崖下の森は風に揺らいで川のように波立つ。葉擦れの音が唸り声や悲鳴のようにあたりを包んだ。
 指先の痛みはすっかり引いていた。弦に触れるのはまだ憚られたが、明日になればまた弾けるだろう。岩に立てかけた珪月を眺めて、彌夕はため息をつく。次第に景色は涙でぼやけていった。
 心が、いまにも張り裂けそうだった。弾いてもいないのに、胸にはいびつな旋律が鳴り響いている。
「うっ……、うう」
 子供じみた嗚咽に嫌気がさす。だが止められなかった。彌夕は夜空へ向かってわんわんと声を上げて泣いた。だが濁った夜空は嘆きを受けとめてはくれない。彌夕は溢れる感情のやり場を失って、手近にあった珪月を掴んで振り上げた。
「らしくないな」
 すぐうしろから声がして、珪月を奪われる。声のあるじは隣に腰をおろして、彌夕へ向かって目を細めた。
「久暉……」
「せっかく練習してるのに、壊そうとするなんて。彌夕らしくない」
「もういいの、いらないの」
「なぜ」
「だって、ちっとも上手にならない」
「これは大人の男が弾く楽器だと聞いてる。幼いお前には難しくて当たり前だ」
「だけど」
 彌夕はどうしても上手になりたい理由を久暉に語ろうとしたものの、口を噤んだ。
 人前であまり笑顔を見せない久暉だが、不思議と彌夕の前では少年らしく笑う。その快活な様子につい甘えたくなるが、彼はこの一団の頂点に立つ存在なのだ。胸のうちに、そして大きくないその背中にたくさんのものを抱えている。彌夕は日ごろから彼に気安く甘えるなと青竜から釘を刺されていた。
「大丈夫、なんでもないから」
「嘘をつくな」
 手をとられ、小柄な体格のわりに大きな手でそっと指先が包まれる。
「傷だらけだ」
 わずかに掠れた久暉の声で、彌夕は久暉が察したことに気づいた。彌夕が黙って軟膏を使ったことを。
「ごめんなさい。勝手に」
 すっかり涙が乾いた彌夕は、毅然として謝った。久暉は彌夕の指先を見つめたまま顔を上げようとしない。彼の淡い青の眼差しは伸びた前髪に隠れてしまい、見えなかった。彌夕は厳しく怒られる覚悟をする。
 だが予想に反して久暉は微笑んでいた。
「昼間、聞こえていた。お前と慶栖のやりとりが」
「そう……」
「彌夕、お前はどうして怒られたかわかっているか」
「それは、私が勝手に安積の軟膏を使ったから」
「そうだ。慶栖は二度とするなと叱っていたな」
「うん」
 思い出すと、それだけで声がつまって苦しくなる。どうして久暉はわかっていることを、傷をえぐるようなことをするのか。彌夕は包まれたままの手をぎゅっと握りしめた。
「いいか彌夕、慶栖は二度と使うなと言ったんじゃない。こそこそと隠れて使うような真似はするなと言ったんだ」
「でも結局は同じことでしょ」
「ばかなことを言うな」
 かるく抱き寄せられ、額と額がこつんとぶつかる。
「お前のことは俺たちみんなの娘みたいに思っている。そのお前の指がぼろぼろになってもいいなんて誰も思っていない」
「え……。それは青竜も……?」
「当然だ」
 すぐ間近で、青竜の故郷で空色と呼ばれている瞳が、力強くうなずく。
「あのあとすぐに慶栖が俺のところへ来て言った。彌夕に薬を使わせてやってほしいと」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ。あんなに必死な慶栖は珍しい。その場にいた比古は、笑いをこらえて泣いていたくらいだ」
 膝の上に珪月が乗せられる。久暉は彌夕の肩をかるく叩いて立ちあがった。
「戻るぞ、彌夕」
 差しだされた手を迷わず握る。血の繋がった家族とは手を繋いだことなどない。肌と肌が触れあうのは、殴られるその時だけだった。こんなにも優しい肌があるということは、彼らに会って初めて知った。
『来い』
 そう言って差し伸べられた青竜の手は、燃え盛る町のなかで嘘のように冷たく心地よかったのだ。
「私、上手になるわ。そして聴いてもらうの」
「ああ、きっと楽しみにしてるよ」
 耳元を過ぎていく風は口笛のように軽やかで、彌夕は久暉と手を繋いだまま飛び跳ねるようにして歩いた。

 灯りが洩れる小部屋を覗くと、青竜が机に突っ伏して眠っていた。純血の青竜には住みづらい世界なのだと聞く。それでなくとも毎日休むことなく万事に目を配っている。計り知れない疲れがあることだろう。
 彌夕は青竜を起こさないように、肩にそっと毛布をかける。
 いつか、彼の疲れを癒せるような、そんな珪月の調べを奏でられるようになりたい。
 願いを胸に秘めて、彌夕は彼の髪に口づけを残した。

<髪/思慕>
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2013年01月01日

新しい光

 どんなときでも時間は流れて、人は世界は変わり続ける。それが当たり前だと人は言う。とてもつらいときだって、時間が解決してくれる、と。
 けれど実咲子はすべてがそうとは思わない。
 時間は均一に流れていくとは限らないし、一秒ずつの積み重ねが奇妙な引力を生むことだってある。
 まるで永遠のような一瞬。
 淀みなかった日々の流れをぐるぐるに掻き乱していくような一瞬は、たしかにあるのだと。



 アルバイト先の診療所を出た実咲子は、ブーツのかかとをカツカツと鳴らしながら走っていた。今年最後の夜の街は興奮気味で、あちらこちらの飲食店から賑やかな声が聞こえてくる。街中に広がる解放感に、実咲子の心もつられるようにして弾んだ。
 首に巻いたマフラーが肩からずり落ちそうになって立ち止まる。吐く息は白く、頬は氷のように冷たいのに、セーターの下はほんのり汗ばんでいた。時計を見ると、針は九時を過ぎている。まあいいか、と実咲子は歩き出した。
 メールに添付されていた地図を頼りに向かうと、地下へ降りる階段のそばに山崎の姿があった。彼女もすぐに実咲子に気づく。
「せんぱーい! こっちです、こっちこっち」
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「大丈夫ですよー。それより大晦日やのにやってる診療所なんてあるんですね」
「休日診療が売りだからねえ」
「え、ほんなら明日も?」
「ううん。明日は私がお休み」
「よかったー」
 とろけそうな笑みを浮かべ、山崎は続けて言った。
「先輩をべろんべろんに酔わしても大丈夫なんですね!」
「ザキちゃん、顔がおっさんになってるよ」
 実咲子の忠告など聞く様子もなく、山崎は実咲子の手を引いて階段を降りていった。
 半地下にあるダイニングバーは、翳りのあるオレンジ色の明かりに照らされ、真夏のような熱気に包まれていた。中央にはいろどりのよい料理が並び、ビュッフェ形式になっている。テーブルはすべて満席で、どこも子どものようにはしゃいでいた。
 壁際のテーブルには関谷、嶋、沙智がおり、嶋は真っ赤な顔をしてすでに出来上がっていた。
「遅れてしまってすみません」
「ああ、ええで気にせんで。シマイチはザキに昼間から引っ張りまわされて、深夜仕様なだけやから」
「嶋くん、おつかれ」
「おつかれさまれぇーす! ところでぇ、先輩はー、診療所ではナース服なんすかぁ?」
「ごめん、受付だからナース服じゃないけど」
「じゃどーっ! 邪道ですよぉおぉ。はあぁ、ナースに怒られたい……」
「すまん、相沢。まあ、座りぃや」
「はい」
 ちらりと山崎の顔を見やるとにやにやしていたので、何かいい加減なことを吹き込んだらしい。中学生男子がつるんでいるようなものなので、注意する気にはならなかった。
 コートとマフラーを椅子の背にかけ座ると、隣の沙智が肩をつついてきた。
「バイトお疲れ。ごはん取りにいこ?」
「うん」
 そろって料理の前に並ぶ。立ちのぼる湯気と香りに、一気に空腹を覚えた。
「うちもう、二週目やけど取りすぎかなあ」
「いいんじゃない? どうせ今日はみんな始発までぐだぐだするんでしょ」
「たぶん。二次会までには全員揃うやろか」
「え、まだ誰か来るの」
「ほら、秋にザキちゃんと付き合ってた……」
「ああ」
 実咲子は数ヶ月前にマテリアルへやってきた男の顔を思い浮かべた。
「あの色男か」
「松下くんやよ。実咲子ちゃん、苦手なタイプ?」
「うーん、何考えてるかわかんないよね」
「年上やねんて、うちらより」
「へえ。浪人……しすぎだね。医学部じゃあるまいし」
「なんか高校出たあとは働いてたんやって」
「詳しいね、さっちゃん」
「うん、こないだ偶然行ったショップで働いとってな」
「そうなんだ」
 サラダにドレッシングをかけて席へ戻る。
「あの人、悪い人やないで?」
「そうなんだろうけど」
 実咲子は返事に困りながら椅子に腰をおろした。悪い人でないからといって誰とでも仲良くできるわけではない。オーダーしたドリンクを待ちながら、レタスの束にフォークを突き立てる。
 まだほとんど話したこともない男の顔を思い出すだけで、心の奥がもやもやとする。飲んでもいないのに悪酔いしたような感じだ。
「もてるんだろうなってことは、よくわかるけどね」
「え、なんて?」
「ううん、なんでもない。よーっし、乾杯しましょう!」
「はいっ! ナース服にぃ、かんぱーい!」
 ナースやないんかと関谷に突っ込まれ、それから一時間、嶋は看護師と制服について延々と語り続けた。また始まったと呆れかえるなか、沙智だけが妙に真面目に聞いていた。嶋いわく、さっちゃんは天使らしい。
 新年三十分前になると、スタッフの動きが慌ただしくなった。カウントダウンの準備がはじまっている。各テーブルにはクラッカーが配られ、料理やデザートが次々入れ替わる。新しくセッティングされたグラスには、干支のシルエットがデザインされていた。
 不意に、背もたれに置いた鞄のなかで携帯電話が震えた。ごめんと席を立って手洗いへ行くが、電波が悪く途切れてしまった。仕方なく席へ戻るとまたかかってくる。実咲子はコートを掴んで店の外へ出た。
 画面には、先生という二文字が点滅していた。
「もしもし」
「あ、みさちゃん。切られたから嫌われたんかおもた」
「そんなこと思ってないくせに」
「なあ、僕のライター知らん?」
「知らない」
 冬の夜空は青く濃く澄んで、いまにも千切れそうなほど張りつめていた。酒で体が火照っているせいか、それほど寒さは感じない。
「そんな即答せんと、すこしくらい捜してよ」
「心当たりがあるの?」
「あるから電話してる。なくても電話したかったから、ライターには感謝してる」
「ばかみたい」
 淳の言葉はどこまでが本気で冗談かわからない。
「ランチしたときに上着をまとめて置いたやん。あのときにちょうど、みさちゃんのコートのポケットが僕のジャケットと口があわさっとって。ほら、キスするみたいに」
「せんせ、酔ってるの」
「大晦日だしね。だいぶ飲まされた」
 実咲子はため息をつきながら、はおったコートのポケットに手を突っ込んだ。指先に冷たい金属の手触りが当たる。
「あるよ」
「よかった。明日もバイト?」
「明日はお休み。でも朝いちなら梅田にいるよ。出てきてくれるなら返したげる」
 電話の向こうから、若い女の呼び声がした。たぶん、彼の妻の声だ。
「いまな、あっちの実家やねん。朝いちで梅田は無理やわ」
「わかってる。大事に保管しておきます」
「ありがとう。みさちゃんも飲みすぎんようにな。おやすみ、よいお年を」
「よいお年を」
 短く返して、実咲子は通話を切った。ため息はいっそう白い。すっかり冷たくなった手で携帯電話を握りしめ、壁にもたれた。すぐに店へ戻る気分にはなれない。いまの会話を何度も繰り返し思い出しては、そのたびに胸を痛めた。苦しいとわかっていながら、思い出さずにはいられない。彼の声を繰り返し聞いていたかった。
 待ち受け画面のデジタル時計は、規則正しく時を刻んでいく。だが実咲子はその流れについていけず、五分前の世界に置いてきぼりだった。
 時間を巻き戻せたら、また彼の声が聴けるのに。
 もっともっと巻き戻したなら、自分だけの彼に会えるのに。そうしたら、嫌いになることもできたかもしれない。喧嘩をして、別れて、結婚したらしいよと風の噂に聞いて、ふうんと言って懐かしむこともできただろうか。
 ひとつ許して、受け入れてしまったときから、実咲子は淳を嫌いになるという選択肢を失ったのだった。
「ミサコ先輩?」
 突然声をかけられ、顔をあげると目の前には見覚えのある顔があった。
「ああ、たしか」
「松下です、こんばんは」
 名前を憶えられていなかったにもかかわらず、松下怜平は笑顔を浮かべた。
「場所、ここであってますよね」
「うん、みんな下にいるよ」
「ありがとうございます」
 怜平は接客スマイルで階段を降りていった。まるでマネキンが街を歩いているような格好で、丁寧な物腰。ああいう男と付き合うと大変だろうなとぼんやり思う。自分とどちらが大変だろうかと考えて、声にするのも億劫なため息が喉を通っていく。
「先輩」
 呼ばれて階段を見下ろすと、怜平の手には実咲子のマフラーがあった。
「落ちてましたよ」
「あ、ありがとう」
 コートを掴んで出てきたときに、一緒にくっついてきたのだろう。
「なんで私のって?」
「いや、だって、先輩に似合うから」
 実咲子は思わず閉口して、冷やかな薄笑いを浮かべた。
「あれ、先輩?」
「松下くんのコートもよくお似合いで」
「ありがとうございます。職場の先輩に恵んでもらったんですけどね」
 いっそうきらきらとした笑顔を向けられ、実咲子はすっかり気が萎えてしまった。マフラーを受け取り、握ったままだった携帯電話をポケットにしまいこむ。中でかつんとライターに当たる。
「いこっか」
「待って先輩」
 口元に人差し指を立て、しっと呟くと、怜平は目を細めて耳を澄ました。
「聞こえませんか?」
「なにが」
「除夜の鐘」
「まさか。こんなに騒がしいのに――って、ちょっと」
 腕を強引に引っ張られ、階段の上へ連れ戻される。
「ほら、やっぱり聞こえますよ」
 あまりにも無邪気にはしゃぐので、実咲子はしぶしぶ耳をそばだてた。きんきんに冷えた音の世界に、熱っぽい喧騒が落ちる。車が行きかう音、人々のざわめき、その向こうにかすかに響く静けさがあった。
「あっ」
「ね」
「聞こえた」
 思いがけず届いた鐘の音に、不思議と嬉しくなる。さらにもうひとつ、夜空に重く広がっていった。
「私の煩悩も払えたかなー」
「たぶん大丈夫ですよ。先輩の煩悩ってどんなのですか」
「うーん」
 心にはすぐに淳のことが思い浮かんだ。だがさきほどの電話の声はもう思い出せない。
「払われたからわかんなくなっちゃった。松下は」
「おなじくです」
「ずっこい」
 ふたりで向かい合ってにやにやとする。ただの色男かと思っていたが、それだけではないのかもしれないと、ふと感じた。
「先輩、あけましておめでとうございます」
 大きな手が差しだされる。
「今年もよろしくお願いします」
「あけましておめでとう」
 実咲子は戸惑いながら怜平の手にそっと触れた。泡を握るような握手をして、実咲子は首をかしげた。
「去年よろしくした覚えはないけど、よろしくね」
「はい」
 そのたった一瞬の笑顔に振り回されることになろうとは、そのときの実咲子は知る由もなかった。
 たった一秒が。
 いつまでも消えない温もりになった。

(新年SS)
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2012年12月26日

Kiss22・腕(怜平×実咲子)

 夜空に打ち上げられた花火は、きらめいて、こぼれて、消えて。そのあとどこに行くのだろう。

「終電までに帰るでー、シマイチー」
「関谷さぁん、僕まだ帰りたくなぁい」
「そういうセリフは彼女ができたときに言ってもらいなさい。よいしょっと」
 嶋の腕を肩に担いだ関谷は、首から鞄をぶらさげて深いため息をついた。怜平は鞄から落ちそうになったペットボトルを押し込んでやり、頭をさげた。
「すいません、これだけ飲むとさすがにバイクは無理なんで……」
「ああ、かまへん。たとえ松下がシラフでも、こんなぐでんぐでんな荷物、カーブ曲がった時に落ちてまうやろ。とりあえず俺んちまで連れて帰るわ。夏やし容赦なく床に転がしとく」
 関谷は靴を履きながら、目線で部屋を指した。
「それより俺らのほうこそ、まともに片付けもせんで」
「大丈夫ですよ」
「そうか。ほな、またな。――おおい、相沢。先に行くわな」
「あ、待ってくださいよ先輩」
 奥から実咲子の返事があったが、関谷は待たずにドアを開けた。怜平はそれを手伝って、ふたりを見送った。エレベーターの前では山崎がボタンを押して待っている。こちらを見てにやにやと笑っている気がしたので、怜平はいったんドアを閉じた。
「みんなもう行っちゃった?」
「関谷さんたちはたぶん。ザキさんが残ってると思いますよ」
「そっか」
 実咲子はサンダルの留め具をはめながら、安堵の息をつく。だが頭を起こして、ふっと顔を曇らせた。
「ねえ、私が寝てるあいだ、みんなで何の話してたの」
「いつもどおり、ばかみたいに騒いでただけですよ」
「うそ。だってさっきからザキちゃんがにやっにやしてた。なんか言ったんでしょ」
「あの人は先輩のお泊まりを阻止できたことが楽しくて仕方ないだけです」
「え?」
 ぱちぱちと目を瞬かせて、実咲子は首をかしげる。
「なんでザキちゃんが」
「そういう人です。人が空振りするのを見て喜ぶタイプ。それが俺だったらなおさらでしょ」
「うーん、そう言われればそうかな」
 苦笑して、実咲子はドアノブへ手をかけた。怜平はその手を掴んで、実咲子の前に立ちふさがった。
「先輩ほんとに帰るの」
「帰るよ。だってなんか嫌じゃない? みんなもいるのに残るなんて」
 同じ状況で泊まっていく女はいくらでもいる。もったいつけて帰る振りをする女も知っている。このまま実咲子を帰してしまうのは惜しかったが、そういう彼女だから好きになったのだ。
 怜平は掴んだ手を引き寄せて、そっと彼女を抱きしめた。
「わかりました。今日は諦めます」
 胸や手のひら、触れあうすべての場所で実咲子の体温を感じとる。やがて互いのぬくもりが均されていくと物足りなくなり、もっともっと欲しくなる。怜平はそれを怖れて、抱きしめたときと同じように静かに体を離した。
「じゃあね、おやすみ」
「はい」
 糸が絡まるようにもつれていた指先がほどけていく。怜平はドアがひらいてしまう前に、うしろから実咲子の肘をとって、すこし冷えた二の腕に唇を落とした。
 突然のことに驚いて実咲子が振り返る。
 怜平はひらきかけたドアを押し開けて、実咲子の背中を促した。
「おやすみなさい、先輩」
 実咲子は何か言いたげに口をひらいたが、山崎の呼び声に応えて、逡巡ののち部屋から出ていった。
 夏の夜空をきらきらと彩った花火のかけらは、瞼の裏に。身を焦がすような熱とともに、今日を永遠に照らし続ける。
 唇に残る肌の感触を指で確かめて、怜平は夢のようだった今日という日を宝箱に閉じこめた。

<腕/恋慕>
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2012年12月25日

べっこう細工

あめみたいにつやつやとして
あんまりおいしそうだから
こっそり きみとなめてみた
とけないこおりのなめらかさで
ほんのり しょっぱいようだった



(2012/10/10~2012/12/25 WEB CLAP)


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