2016年08月30日

neverland

 背を向けながら、ティンクは流星のようなブロンドの髪をまとめる。首筋に残る数本の髪を、僕は指に絡めた。
「やめて、痛いから」
「ティンクの髪はやわらかくて気持ちいいんだもの」
 肩越しに振り返っていたティンクは呆れながらもありがとうと呟いた。
「いつからこんな口ばかりの男の子になったのかしら」
「君がそうしたんだよ」
「こんな調子で大人になったら、きっととんでもないことをしでかすわ」
「大丈夫、僕は大人にならないから」
 ――なりたくもないから。
 ティンクは髪をおだんごにしてベッドから立ち上がった。薄暗い部屋のなか、カーテンに染み出した朝日に彼女の背中の翅が透ける。縁が水面のように輝いて、ふるえている。翅を伝って落ちた光が腰に滴る。あるがままの背中に、僕はたまらず抱きついた。
「行かないでよ、ティンク。ずっと僕のところにいて」
「わたしはあなたから離れたりしないわ。赤ん坊のころからあなたを見てきたのよ。離れたりしない。ただ少し、様子を見てくるだけよ」
「嘘だ、そんなこと言いながら君も僕を捨てるんだ」
 背中に吸いついて、前へまわした両手で彼女をまさぐる。はじめは逃れようとしていたティンクもやがて腕のなかでほどけていく。悦びに声が洩れ、翅がふるえるたびに光の粉が散った。ベッドへとひきずり倒して覆いかぶさる。
 いつしか彼女を組み伏せるほど大きくなっていた。いつからだろう彼女を母代わりではなく、おんなとして見るようになっていた。そうしていつだってふたりでどろどろになった。
 うつぶせになったティンクの腰をかかえて、強引にエゴを押し込んでいく。か細く切ない鳴き声がさらに奮い立たせる。一度すぐに果てたが、そのまま繋がり続けていると何もなかったように彼女の内側を埋めていた。互いの情が掻き出されて、無様な音を奏でながら脚を濡らしていく。やがて腕で体を支えられなくなり、ティンクが枕元へ顔を押しつけた。泣きはらしたような目元が愛しくてたまらない。もっと近付きたくて、いまにも破れそうな翅を乱暴に掴む。
「ずっとこうしていようよ」
 もう何度吐き出したかわからない我儘でティンクの体を困らせる。どこまでが自分で、どこからが彼女のやわらかな部分か見分けがつかなくなった。
 大人になんてなりたくない。僕らはいつまでだって子どものまま、大人の真似事で愛し続ける。
 ティンクへと続く入口は餌を待つ雛鳥のように、しきりに嘴をひらいた。おさまりきらずに溢れた寂しさを指で掬って翅になすりつける。応えるように光が舞う。
「僕を愛していて」
 咬みつくように口づけて、とわに朽ちない、ただ淡くなるばかりの花を咲かせた。




「蜜に毒」の宣伝用ペーパーに載せていたピーターパンをモチーフにしたSSです。
偶然ファイルを見つけたので、こちらへ投げておくことにしました。
もっとうねうねと書きたいお話だったのですが、他のモチーフから浮いていたのでSSとして昇華。
このピーターパンのような少年はまたあらためて違うお話で挑戦してみたいです。いっそいい大人にしてしまって、ぐだぐだとした関係に拍車をかけたい。
posted by くまごろう at 15:49| その他SS | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

狼たちの夜・初稿ラストシーン

覆面作家企画7に提出した「狼たちの夜」の初稿でのラストシーンです。
ロン(以下の初稿ではシン)とラルフが銃を向け合って話している場面の途中からです。

ちなみにこのときのタイトルは「フィナーレ」でした。

***

「最後までおれに命乞いをして、無様な」
 彼が抱く憎しみを、シンはむしろ好ましく思った。獣の牙のように剥き出しで、飾るところがない。憎しみは獲物の肉を噛み切るものであり、かなしいと嘆く遠吠えでもあった。どこまでも実直で、うつくしい姿だった。
「シン、そろそろこれを下ろそう」
 ラルフは目で銃を示す。だがシンは応じなかった。視界の端でなにかが動く。シンはラルフの背後へ向けて素早く銃を撃った。ジャンの配下の男が地面に倒れた。
「下ろすもなにも、いまのが最後の一発だ」
 コンテナにもたれかかり、シンはずるずるとその場に座り込んだ。ラルフがシンの傷に気づく。
「出血がひどい。はやく止血しないと」
「それより煙草がほしい」
「まったく……」
 ラルフが煙草を取り出そうとするのを手で制して、シンは鼻で笑った。
「二日連続で貰えるかよ。あんたにこれ以上借りを作るわけにはいかない」
「なにをばかなことを」
「大事なことだ。この街ではな」
 血の気の引いた腕は砂袋のように重い。シンはジャケットの内ポケットへ手を伸ばす。
「やっぱり待て、シン」
「なんだ」
 ラルフは顔をこわばらせ、ふたたびシンに銃を向けた。
「そこにあるのは本当に煙草か」
 濡れたシャツ越しに、煙草のパッケージの感触がたしかにある。だがシンはかるく微笑んで首をかしげた。
 ラルフの腕時計の文字盤が見える。あと五分でこの街は長かった夜を終え、朝を迎える。はたしてその朝がどれほど美しいか、それともなにも変わらない一日が待っているのか、誰にもわからない。
「なあ、あんたは上司が撃たれるのを見たのか」
「いや、なんの話だ」
「だったらどうして流れ弾なんて言える。おれが撃ったかもしれないのに」
 それならシンはたしかに愛した街とともに、と思うのだった。
「本当か」
「かもしれない」
「ふざけるな、ちゃんと答えろ!」
 どんなネオンにも負けない、よく晴れた日の月のように冷たく激しい目をしていた。シンは朦朧とする意識のなか、その眼差しを舞台のスポットライトのように感じていた。さらに手を伸ばし、煙草の箱を掴む。
「やめろ、シン。それ以上動かないでくれ。おれはあんたを撃ちたくない。なあ、今度はおなじテーブルで飯を食おう、いいだろう」
「デカと一緒に飯なんて、ごめんだね」
 ついにシンはポケットから箱を引き抜く。ラルフは引き金にかけた指を震わせ、きつく目を閉じた。
posted by くまごろう at 19:00| その他SS | 更新情報をチェックする

2015年10月30日

千年譚

 光を向けると女は燃えるような紅い目を、一方男はどんな光も受けつけない黒い目をしていた。
 人の姿をした怪異である。
 人とは異なる存在になってから、いくつもの夜をともに越えてきた。紅鶴と黒鹿は夫婦であり、兄妹であり、親友であり、互いの半身であった。
 かつて人であったとき、紅鶴は妾であり、黒鹿は室の衛兵であった。ふたりは言葉を交わすことはおろか、目を見合わすことすら許されなかった。屋敷の主人は毎夜紅鶴を撲った。紅鶴は決して声をあげないので、黒鹿は壁に耳を寄せて様子をうかがうしかできない。いつか、助けを呼ぶ声がしたならば、自分のいのちにかえても紅鶴を助け出すことを心に決めていた。
 ある夜のこと、主人の声が不自然に途切れたので黒鹿が室を覗くと、床に伏した主人の肉を紅鶴が食らっていた。なぜ食うのかと黒鹿が問うと、いとしいからと彼女は答えた。夜明けは近い。主人を殺せば理由の如何にかかわらず死刑だ。殉じるのかという問いに紅鶴は答えず、助かりたいかと問えばかすかに小さく頷いた。黒鹿は紅鶴の手を引いて屋敷を逃げ出した。追っ手はすぐにかかった。黒鹿はそれを容赦なく斬り伏せた。黒鹿の槍は荒々しく、あとに残された死体は人の形をとどめることすらできなかった。三日三晩逃げ続け、四日目の朝日を浴びたとき、ふたりは人ではない生きものになっていた。
 紅鶴と黒鹿は大地に吹く風のように旅をした。暁とともに目覚めて、日没とともに眠る。狩った鳥や兎をわけあい、凍えそうに寒いときには身を寄せあった。長い歳月のなかで国は何度も乱れ、多くの町が生き死にを繰り返した。そのただなかに巻き込まれることもあったが、人ならざるふたりは災厄とは無縁だった。ふたりはいつも、ふたりきりだった。
 あれからどれだけの月日が経っただろうかと、ふと紅鶴が口にした。皇帝の数をかぞえてみると、およそ千年が過ぎていた。紅鶴は星を見上げて呟いた。あの人はすっかりわたしのものになっただろうかと。黒鹿は静かに微笑んで言った。はじめからあなたのものだよ、と。
 別れは突然訪れた。丘の頂で紅鶴は血を吐き、泥人形のように膝から崩れ落ちた。朝から雨が降り続き、辺りは日が暮れたように薄暗い。黒鹿が灯りを掲げると紅鶴の目は人であったときの茶褐色をしていた。黒鹿は紅鶴の死の気配に涙した。なぜ、なぜと繰り返す。紅鶴はむしろ穏やかな笑みを浮かべた。あなたを恨んだこともある、抱かれるのがつらい夜もあった、けれどいまはあなたの腕が心地いい。そう言って浅い息を吐く。紅鶴は黒鹿の顔を引き寄せ額を重ねた。ありがとうと唇が動く。黒鹿はそれをみずからの唇で感じていた。そしてもう二度と紅鶴が言葉を紡ぐことはなかった。黒鹿は紅鶴の唇を噛み千切ろうかと口をひらいたが、彼女を傷つけることはできなかった。
 やがて雨があがる。黒鹿は紅鶴の口もとに残る、彼女になれなかった息をそっと吸った。




テキレボ2の無料配布ペーパー用に書いたもの。
はじめての中華風。はじめての異形。とても楽しかったです。
ただし、はじめてだらけのこのお話が無配向きだったかどうかと問われると……うーん。笑
いつか50枚ほどのお話にできるとよいなあ。

posted by くまごろう at 11:38| その他SS | 更新情報をチェックする

2015年10月01日

ただ、手をのばして

 門扉をあけたときから、脂の焼けるなんとも食欲をそそる香りが漂っていた。鮭かホッケかと思い浮かべながら台所を覗くと、周義兄さんが塩鮭を大皿へ取り出しているところだった。
「おう、おかえり」
「煙草吸いながら料理すんのやめろって言われてるくせに」
「自分も食べるものに灰なんて落とさないよ」
 翻訳の仕事に行き詰まると義兄さんは台所に立つ。うまそうに煙草を吸って鼻歌をうたいながら、ビールの缶をひょいと傾ける。そんなふうに片手間に作っているのに、義兄さんの作る料理はそこそこうまい。味付けはもちろんだが、食べる人が次になにを欲しがるか見越した取り合わせだった。食事とは関わりのない心の奥まで見透かしてくるようで、ぼくは時おり腹立たしい。
 小鍋にはまだ湯気のあがるかぼちゃの煮物、鉢には高野豆腐と絹さやの炊き合わせがあった。ぼくは義兄さんの目を盗んでかぼちゃを口に放り込んだ。冷ましきっていないかぼちゃはほくほくとした食感が強く、味もまだ鈍い。汁をたっぷり含んだ高野豆腐をそっと噛みしめると、媚びない出汁の風味が頬の裏側にじわじわと染みた。やっぱり今日も腹立たしい。
「春彦、庭から大葉取ってきて」
「まだ制服なんだけど」
「あとお隣の時田さん家に回覧板届けてきて、そのあと餅にご飯よろしく」
 餅とは庭に住み着いたのら猫で、ねえさんはシロと呼んでいる。ぼくは、あまり懐いてくれないので名前を呼んだこともない。
「にいさんが行かないと食べてくれないんじゃない」
「人の子だって置いとけば勝手に食べるんだから、猫の子だって好きに食べるよ。ほら、食ったぶんくらい手伝え」
 片脚で追い払われて、仕方なく回覧板を手に隣家へ赴く。だが何度インターホンを押しても返事がない。どうしようかと思っているうちに二階の窓がひらいて、千夏が顔を覗かせた。
「うるさいわね、ばか」
「ばかはないだろ。回覧板持ってきたのに」
「そのへんに置いといて。腐るものでもないんだから」
「原則手渡し」
 千夏はさらに言い返そうとしたが、わかったと言って窓を閉めた。二階から一階へ降りてくるにはすこし長い時間を待って、引き戸がひらく。
「細かい男。周さんなら、置いといてくれるのに」
 千夏もまたセーラー服のままだった。濃紺のリボンタイはほどけて、プリーツスカートは裾が小さく折れていた。まるで一度脱いだ服を着たような着崩れ方をしている。
「几帳面って言ってくれる。義兄さんは……雑なんだよ」
 ぼくが言い淀んだことなど見向きもしないで、千夏はぼくの手から回覧板をひったくった。
「いつまでも拗ねるのやめなさいよね。深雪さんの、自分のお姉さんの幸せをきちんと祝えないなんてみっともない。あんた、好きな人とかいないの」
「なんでそんな話」
「いれば、きっとそんなんじゃないだろうと思ってね」
「だったら訊くな」
 立ち去ろうとすると、春彦、とわずかに弱々しい声で呼びとめられる。振り返ると、千夏は下唇をかるく噛んで、ぼくを睨みつけていた。
「なに」
「背ばっかり大きくなって、……ばかみたい」
 ひときわ冷たい声で言い放って、千夏は静かに戸を閉めた。玄関にサイズの大きなスニーカーがあることに気づいたが、確かめようとしたときにはもう、磨りガラスに透けて見える千夏の影までも消えてしまったあとだった。見られている気がして、ぼくは顔を上げないまま家へ戻った。
 縁側で缶詰の蓋をあけると、椿を植えた一角から清かな白い猫がそろりと前足を差し出す。
「ご飯だよ、ねこ」
 日暮れ前の曖昧な光のなかでは、猫の表情はよくわからない。猫はまだ若く、しなやかな動きをする。音も立てずに庭を横切り、仙人が杖の上に立つような身軽さで縁側に上がってきた。だがそこから一歩も動こうとしない。じっとこちらを見つめて警戒している。驚かせないように皿を足先で押しやっても、耳をぴんと立てたまま鼻をふんふんと動かすばかりで皿を見ようともしない。
「とって食ったりしないんだけど」
 のら猫からも激しい敵意を向けられ、腹立たしさより疲労感が増す。
 二学期が始まって二週間、体の内側には夏の名残りがあった。それが汗のようにじっとりとまとわりついてきて、座っているのもつらい。たまらず柱にもたれかかって、胸の奥のもやもやとしたところから大きく息を吐き出した。
 すっかり陽は傾いて、白い月が引っかき傷のように浮かんでいた。たったいま滲みだしたにもかかわらず、すぐにもまわりの空に溶けてしまいそうな儚さがある。どうしてか、いっそ消えてしまえばいいのにと、そればかり願っている自分がいた。
 投げ出した片足が縁側からはみ出て、サンダルを押し潰していた。これはねえさんのお気に入りだから退けなければと思うほど足は重く沈んでいく。怒られるだろうか。それも悪くない気がする。
 手の甲にやわらかな感触があった。目をひらくと空は藍に染まっていた。眠っていたのはほんの十分ほど。夢を見ていた気がするが、内容は思い出せない。ただ、引き絞られるような痛みだけが胸の奥に張り付いていた。だらりと垂れた手のそばには、猫が丸くなっていた。
「ただいまー」
 ねえさんの声が玄関から響いてくる。おかえりと応えた義兄さんの足音が、ふと行き先を迷うようにとまってこちらへ向かってきた。
「また風邪ひくぞ」
 義兄さんは猫を抱きあげて高い高いをする。とつぜんのことに驚いた猫は濁った鳴き声をあげて逃げ出していった。
「怖がりだなあ」
 猫への言葉とわかりつつ、聞き流すことができない。
「義兄さんみたいにはいかない」
 見上げると、笑うでも怒るでもない様子で義兄さんは立っていた。
「なんでもできる人にはわからないよ。ぼくが猫でもきっと逃げ出す」
「おれにだって怖いことくらいある」
「まさか。なんだよ、怖いことって」
「そうだな、たとえばあの月が突然消えてしまうとかかな」
 怖いと言いながら義兄さんはやさしく目を細めている。そして、と言い足したとき、台所からやったーと喜ぶねえさんの声がした。鮭寿司とかぼちゃと高野豆腐はねえさんの好物だ。
 義兄さんは困ったように笑って立ち去ろうとする。
「そして、なんだよ」
 立ち上がって言葉で追いすがると、義兄さんはなかばぼくを振り返りながら部屋の隅の暗がりを冷たく見やった。
「そして心のどこかで消えてしまうことを願っている自分がいると、誰かに知られることかな」
「なんだ、それ」
「たとえ話だよ。ほら、メシにするぞ。……ん」
 行きかけた義兄さんが、ふと立ち止まり一歩戻ってくる。
「春彦、背伸びたな」
「まだ義兄さんには届かないけど」
 子どものころから小柄で、それがコンプレックスだ。千夏にもそれでよくからかわれてきた。
「大丈夫、おまえはおれより大きくなるよ」
 ただ、義兄さんだけがそう言って微笑ってくれる。
「慰めならいらない」
「これは予言、いやたしかな未来、だな」
 ねえさんの呼ぶ声がする。義兄さんは応えて行ってしまう。庭を振り返ると白い影が佇んでいた。すっかり暮れてしまった夜の門番のようだった。
 ぼくは制服のシャツのボタンを外しながら、足の甲にこすれなくなったズボンの裾を見下ろした。この制服をやがて脱ぐときに、いったいぼくはどれだけのものを得て、そしておなじだけなにを失うのだろう。
 それはたしかにぼくだろうか。
 錦糸玉子と大葉を散らした鮭寿司は、鮭の朱と合わせて万華鏡のようだ。それを上品に頬張るねえさんを、ぼくは微笑ましく思う。これだけは失くしたくないし、消えてしまえとも。たぶん思っていた。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

300字用に書いてたはずが10倍になりました。
供養…。
気が向いたら推敲する…かも…?
posted by くまごろう at 23:33| その他SS | 更新情報をチェックする

2015年09月23日

空想弁当

 弁当を忘れた。賑やかな教室を抜け出し、ぼくは人気のない非常階段へ向かった。
 教室を出た直後から気配には気づいていた。鉄扉を押し開け冷たい鉄階段に座りこみ、斜め後ろの上靴を睨みつけた。
「なんでついてくるんだよ」
「本読んでるだけだし」
 秋之は頬杖をついて片手で文庫本の頁を繰る。
「深雪さんのお弁当忘れるとか、春彦おまえバカ」
 本に目を落としたまま秋之は言う。
「今ごろ周さんの腹ん中だな」
「うるさい」
「あまい玉子焼き、小松菜のおひたし、塩鮭、ご飯がすすむ筑前煮」
「あーもーなんの嫌がらせ!」
 階段を踏み鳴らすぼくを見下ろして、秋之はにやりと笑った。
「空想弁当の代金だよ」

 五時間目、ぼくと秋之は盛大に腹の虫を奏でた。

posted by くまごろう at 16:01| その他SS | 更新情報をチェックする

2015年09月03日

リスタート

 荷造りをしていると、覚えのない文庫本が一冊転がり落ちてきた。書店のカバーは破れかかって、いまにも千切れそうだ。
 やわい花びらをつまむようにそっと頁をめくる。ずいぶん昔に買ってあげた詩集だった。
「お父さん、どう?」
「これ、おまえのだろう」
「わ! ずっと探してたんだ。よかった!」
 あの日とおなじように笑って、君は本を胸に抱く。
「たくさんあるね」
「ああ」
「持ってけばいいのに」
「畑の世話でそれどころじゃないよ」
 膝に手を当て立ち上がり、箱を見渡す。
「それに読みたくなったらまた買えばいい」
 何度だってやり直せばいい。生きているかぎり、線をひけばそこがスタートラインになるのだから。
「お茶にしよっか」
「そうだな」

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

テキレボ2、300字SSポストカードラリー用に作ったもののボツ案。
潔いほどの直球。
posted by くまごろう at 12:36| その他SS | 更新情報をチェックする

2015年07月15日

桃の体温

 期末試験のあいだに夏風邪をこじらせ、姉に仕事を休ませてしまった。情けないがぼくには粛々と寝ているしかできない。
 姉の手には白桃があった。果物ナイフを寝かせて皮を剥いている。
「周くんが買ってきてくれた」
「義兄さんが?」
「春彦はきっとこれが好きだから、って」
 切り分けられた白桃に楊枝をさす。口へ運ぶだけで指や口のまわりが果汁だらけになった。剥いているあいだに外気や姉の体温を吸ったのだろう、とろりとした果肉にふさわしくわずかにぬるくなっていた。剥いてくれた人の温もりごと食べているようだった。
「おいしい」
 冷やしすぎるより甘さが際立つ。義兄もまたこれが好きなのだろう。そう確信してぼくはすべてを平らげた。
posted by くまごろう at 16:22| その他SS | 更新情報をチェックする

2009年09月17日

恋情(SS)

 ねえ、真っ青な空の下で、思いがけず泣きたくなったこと。ない?

 君の呟くような問いかけに、僕は戸惑い口篭った。肩にかかる髪を揺らして、君がこちらを振り向く。
「私は、あるよ」
 艶やかな唇は、僕を試すようだった。本当の気持ちも、強がりな嘘も、舌の奥で泡になって消えていく。君はそれを見透かしたように笑ったんだ。
「あんまり青くて、青くて青くて。私が連れて行かれそうになるの」
 芝生に寝転がって、君は空に手を伸ばす。濁りのない清新な草花に埋もれて、まるできれいな死体みたい。
 君の桜貝のような爪に、極彩色の蝶が羽を休める。
「怖くなって。でも、嬉しかった」
 僕を見上げようとして逸らした首が、罪なほどにか弱い。君なんて、すぐに壊れてしまう存在なのに。僕の手で掻き乱されて、カナリヤのように啼いていればいいんだ。
「おかしいでしょ。笑って、いいよ」
 僕の代わりに君が笑って、君の薄い胸が揺れた。
 手に触れた草を引き千切る。掌には青い汁が滲んだ。噎せるような青いにおいが、風に掬い上げられていく。
 叫びだけで君を貫けたらいいのに。
 いつだって掻き乱されるのは僕の方だ。
 無防備な足が空を泳ぐ。細い骨のようなサンダルが、緑の底へ沈んでいく。
「あのね、とても気持ちよかった」
 起き上がって、摘んだ蝶を僕の手に乗せる。空を振り仰いだ蝶の感触に、背筋が震えた。
「まるで世界とセックスしてるみたい」
 駆け出した君は光を遮って白いスカートを揺らす。僕は小さな背中を見つめて、光に透ける君の肢体を目に焼き付ける。
 音もなく、蝶が飛び立つ。

 僕は、世界に嫉妬した。
posted by くまごろう at 00:00| その他SS | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。