2011年12月19日

ちょうちょ結び

 開店の準備をひとまず終えて、由稀は梅詩亭の厨房から出た。卓の上から椅子はおろされ、こちらもすっかり整っていた。しかし壁にかけられた燭台の半分しか灯りがないため、店全体はまだ薄暗い。
 その暗がりの隅で、動くものがあった。目を凝らすと、羅依の後ろ姿だった。
「なにしてんの」
 前触れなく呼びかけると、羅依は肩を震わせて驚いた。
「なんでもない」
「だったらなんでそんな隅っこにいるんだよ。終わったんなら奥で休憩しよう」
「えと、あ、あたしまだやることあるから」
「それなら手伝うよ」
 由稀は羅依のほうへ歩み寄って、彼女の手元を見下ろす。少女にしては大きな手には、いつも彼女が使っている髪留め用の紐が握られていた。そのときになって、羅依の長い髪がおろされていることに気づく。
 羅依は由稀を見あげて、眉を下げた。
「ほどけちゃって」
「何が『まだやることあるから』だよ。できないくせに」
 由稀は紐を奪い取って、羅依の真後ろへ椅子を引き寄せた。
「櫛は」
「ある」
「貸して」
 手を羅依の横から出して、櫛を催促する。そっと置かれた櫛を掴むと、由稀は羅依の髪を手に取った。
「いつも俺がやってるのに。つか、今朝のがゆるかったんなら俺のせいだろ。なんで言わないの」
 羅依の淡紫色の髪は細く、からまりやすい。後ろから軽く頭を押して、毛先まで丁寧に櫛を通して、流れを揃えていく。
「だって」
 うつむき加減になった羅依がうなるように呟く。
「だって、なに?」
「だって詩桜に悪いし」
「は?」
「自分でまとめられないから由稀にやってもらってるとか、詩桜に言えないだろ。でもここでやってもらってたら、見られちゃうかもしれないから、だから……」
「別に、悪いことしてないけど? それに俺、詩桜の髪を同じようにしてやれるかって言ったら、無理だし」
「じゃあ、なおさら――」
「違うよ。緊張して、変な気起こしそうになる」
「へ?」
「羅依相手だから、こんなふうにできるんだよ。玲妥と同じように」
 髪を撫でるように櫛をとおし、少しずつ片手に髪を集めていく。砂のようにさらさらとこぼれていく髪も、あせらずゆっくりと束ねていく。
「ちょっと上向いて」
 櫛でおさえながら、ねじった髪を上へ上へと引き上げていく。由稀は視線を感じて羅依の顔を上から覗きこんだ。
「言いたいことがあるなら言えよ」
「由稀もおとこのこなんだな」
「まあ、羅依の前ではあんまり関係ないけど」
「よろこんでいいんだよな」
「いいんじゃね? 俺、瞬に殺される気ないし」
「瞬のことは今は関係ないだろ」
「はい。いいよ、頭戻して」
 頭の高いところでくくる場所を見定め、よれた部分を櫛でなぞる。由稀は櫛を羅依へ返して、かわりに紐を受け取った。紐の端を口にはさんで、もう片方の端をたぐりよせる。
 壁際で蝋燭の燃える音がする。じりじりと時を刻んでいる。耳を澄ませば、街の気配が感じられた。目を閉じると、幼かった玲妥の後ろ姿が瞼に浮かんだ。
『お兄ちゃん、玲妥ちょーちょむすびがいい!』
 この場所は育った場所とよく似ている。ふと、いつまでも羅依の髪に触れていたい気持ちになった。
 束ねた根元へ飾り紐をあてがって、手早く巻きつけていく。
「痛くないか」
「うん、全然」
 どこか眠たげな羅依の声を聞いて、由稀は朝より少しきつめに紐をしばった。最後に余った部分を蝶のように結んで、かるく頭をたたく。
「できあがり」
「ありがとう」
 羅依はそっと結び目に触れて、不思議そうに振り返った。
「由稀、これ」
「ちょーちょむすび」
「いやだ恥ずかしい。いつものにしてよ」
「俺にさっさと頼まなかった罰」
「おい由稀!」
 抗議の声をあげて、羅依は由稀へ腕を伸ばした。その指先から華麗に逃れて、由稀は椅子から立つ。
「大丈夫、似合ってる。かわいいよ」
「絶対嘘だ! あたしは騙されな――」
「瞬もきっとそう言うよ」
「えっ」
 暗がりでもわかるほど、とっさに羅依の顔が赤く染まった。
「そう、かな」
 ちょんちょんと指先で結び目をつつき、羅依はやわらかく微笑んだ。
「たまには、いいかな」
「だろ。ほら、開店まで時間ないぜ。腹ごしらえしとこう」
「うん」
 うなずいた羅依の髪で蝶が揺れる。
 由稀は厨房へ戻って、袖をまくった。
 指先には、蝶を結わえた感触がまだ残っていた。

(拍手お礼)
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2010年07月07日

ひかりの在り処

 羅依は廟所の端に腰を下ろして、日なたを見遣った。日なたといっても、天水の光はか細い。廟所の屋根が作る影は、乾いた土の上に曖昧な境界を滲ませるだけだった。
 だが羅依はそこに明らかな隔たりを感じていた。
 彼がいる場所は、いつだってどこだって、遠い。
「瞬……」
 口の中で、声にならない呟きをもらす。ため息のような呼びかけは、風に攫われてすぐに消えた。
 千切れそうな光のせいで、瞬の背中が震えて見える。無言の嘆きが伝わってくるようだった。
 以前にも見たことのある背中だ。
「あ……」
 息絶えた茜を抱きしめていたときと、同じ背中だ。
 羅依は体ごと廟所を振り返った。整然と並ぶ柱を見遣って、ここに茜の名が刻まれることはないのだろうかと思う。少なくとも、建てられる柱は空っぽになる。
 急に背筋が冷たくなった。羅依は息をとめて廟に背を向けた。
 強い風の音が、時折潮騒に思える。体の中に、波が押し寄せる。羅依は重いため息を吐き出した。
 あのとき、アシリカの海で、彼を助けた自分は間違っていたのだろうか。
 羅依は何度も繰り返してきた問いをまた重ねた。
 たとえ命を繋いでも彼の世界が停止すれば、それは生きているとはいえない。瞬にとって世界の歯車は茜ではなかったか。茜だけが、失意のうちの瞬をこの世に繋ぎとめられたのではないのか。
 ならばいま生きている瞬は、どうやって生きているのだ。
 彼は、いま、生きているのか。
『だったらお前に背負えるのか』
 さきほど瞬に言われた言葉を思い返す。羅依は脚をかかえて、膝のあいだに額を乗せた。肩をすくめて、小さくなる。
 背負わせてくれるのなら、背負いたかった。
 目を閉じると、瞬の眼差しが脳裏に浮かんだ。ずっと追い続けてきた眼差しだ。背負う罪の重さが、深緑の輝きをいっそう濃くした。彼の瞳は誰よりも美しく、誰よりも悲しい色をしていた。
 たたんでいた足を伸ばして、地面に滲む光へ爪先を向ける。だが、寸前で竦んでしまった。
 瞬に追いつきたい。
 けれども、追いつけない。
 彼がどんなに業を負っていようと、闇をまとっていようと、羅依にとって鬼使・瞬という存在は、一筋の光明だった。
 幼い日に母を喪い、羅依はひとりになった。冷酷で無為な世界を生き抜くためには、手段を選んでいる余裕はなかった。男のなりをして賞金首を追う日々は虚しく、その日の獲物を探し求める獣のようだった。あの頃の羅依は過去も未来も信じられず、今という時ですら曖昧で、時間が通り過ぎるのをただ諾々と待っていた。
 そこに鬼使があらわれた。怒りを覚え、羞恥に苛まれ、世界に色彩がよみがえった。霞んでいた世界が一気に晴れた。
 羅依は瞬を追うことで前を向くことができたのだ。
 だからこそわかる。瞬から荷を奪ってはいけない。
 彼をこのまま生かしたいなら、荷という世界との繋がりを残すしかない。たとえ瞬が生きることを投げ出そうとしても、繋がりが彼を許さないように。そう、あの海のように。
 残酷な願望だ。その自覚はあった。
 許されるなら、彼が背負う罪を、隣で支えて歩きたかった。それを瞬に伝えたかった。瞬もそれを待ってくれていると信じていた。けれど羅依には、最後の一歩が踏み出せなかった。どんな形でも彼に生きていてほしい願いが、もう一つの願いを踏みつぶしたのだ。
 服のあちこちから、花を摘むときについた、青いにおいがした。体の底に容赦なく突き刺さる、無神経なにおいだった。とたんに、喉の奥からこみ上げてくるものがあって、羅依は必死にそれをこらえた。息をとめていると苦しさがまさって、鼻の奥がつんとした。かたく目を閉じてやり過ごす。涙だったのかもしれない。
 寄せた足元に視線を落とす。羅依は肩で大きく息をついた。
「どうかしましたか」
 頭上から声が降ってきて、羅依は慌てて顔を上げた。いつの間にか、すぐそばに陣矢が立っていた。
「あ、いや」
「気分がすぐれないのなら、城で休んでいかれますか」
「大丈夫、大丈夫です!」
 勢いよく立ち上がると軽い目眩がしたが、腹に力を込めてなんとか持ちこたえる。陣矢はそれを見透かしているようだったが、静かに笑って羅依の主張を立てた。
「わかりました。では行きましょうか」
 甘い香りが風に乗って運ばれてくる。風上を振り向くと、瞬がいた。瞬は羅依の視線を受け止めると、小さく頷いて歩き出した。羅依には、帰ろうと聞こえた。
 瞬のあとを追って、再び廟所の中を横切る。気を抜くと、足元から立ちのぼってくる冷たさに、生命を引きずられそうになる。斜め後ろには陣矢の気配があったが、羅依は構わず早足になって瞬に追いついた。隣に並ぶのは憚られたので、一歩うしろを歩く。
 瞬の横顔を後ろから見上げる。いつまでだって、見ていたくなる。もっと色んな表情を見てみたくなる。
「瞬」
 呼びかけに、瞬が肩越しに羅依を見下ろした。眉を軽く上げ、何事か問う。
「ううん、ごめん。なんでもない」
 振り向いてほしかったとは、言えなかった。
 羅依は首を傾げる瞬から逃れるように、彼を追い抜いて先を歩いた。見られているかもしれないと思うと、背中が緊張でこわばった。規則的についてくる瞬の足音を聞いているだけで、彼がいまどんな仕草で、どんな表情で歩いているかが想像できた。羅依は彼を感じていたくて、わざと足音をずらして歩いた。
 廟所の門を陣矢に開けてもらい、さきほど下ってきた道をのぼる。
 振り返れば海のように広がる砂漠があった。風に流される髪を手で押さえ、羅依は砂の海に目を奪われた。
 砂漠には、何もない。
 海のように世界を覆っているのに、砂漠には広がりが感じられない。ただそこに在るだけだ。波間のきらめきも、干満の変化も、底の見えない恐ろしさも、何もない。
 ただ、何もないのにそこに在り続けられることが、羅依にはひどく神秘だった。
 砂はどこを目指しているのだろう。風に流され、ただそれだけなのか。
「羅依」
 瞬の声がした。羅依は砂漠に後ろ髪をひかれつつ、足を踏み出した。
 来た道を戻り、やがて城の回廊へとさしかかる。揃いの服を着た城仕えの女らが、壁際に寄って頭を下げた。陣矢は小さく頷いて応えたが、瞬はあからさまに不機嫌な様子で、そっぽを向いていた。羅依も慣れないこの場所から早く立ち去りたいと思うようになっていた。
 門を開けてもらい外へ出ると、体から一気に力が抜けた。羅依は目立たないように伸びをして、灰色の空を見上げた。
「お嬢さん」
 声に振り返ると、すぐ後ろに陣矢が立っていた。
「陣矢さん、ありがとうございました」
 案内してくれたことに礼を言って、羅依は小さく頭を下げた。
「それはいいんですよ。こちらこそ、ありがとうございます」
「え」
「瞬を連れてきてくれて」
「ち、違います。別にあたしが瞬を連れ出したわけじゃなくて」
「でも彼は、あなたがいたから来られたんだと思いますよ」
「まさか……」
 羅依は卑屈に呟いて、陣矢から視線をそらした。持て余した視線の先に、瞬を探す。だが見渡せる範囲に、彼はもういなかった。陣矢を振り返って、ほらと言おうとすると、背の高い彼が腰を屈めてそっと羅依に耳打ちをした。
「瞬を、お願いします」
「そんなの……」
 頼まれても困ると無下に断ることはできなかった。間近で見た陣矢の眼差しは、何もかもをわかっているようだった。
「市場を通るのなら、はぐれないように。あなたの言葉は天水の市民には通用しませんから。しっかりと瞬を離さないで」
 肩を掴まれ、背中を押される。羅依はたたらを踏みながら前へ歩き出した。
「お気をつけて」
 後ろから陣矢の声がかかる。振り返って手を振ると、大きく振り返してくれた。羅依は長い髪を払って、瞬を追った。
 城から続く緩やかな下り坂には、来るときには見られなかった露店がずらりと並んでいた。兵士の見回りは坂の下の市場より厳しいようだが、客足は多く盛況だった。
 羅依は廟所にいたときのように、瞬の少し後ろをついて歩く。だが人通りが増えるにつれて、徐々に瞬との距離が開きはじめた。すれ違う人々が、不思議そうに羅依を振り返っていく。赤ら顔をした中年の男が大きな声で何か言っていたが、羅依には男の言葉がわからない。ただ、あまりいいことでないことは、男の顔を見ていてわかった。
 たやすく傷つくような心根ではないと思っている。どんな中傷も今まで跳ね除けてきた。しかしそうしようにも、相手の言葉がわからなければ、跳ね除けようがない。
 羅依は思わず立ち止まり、赤い顔をした男に歩み寄った。何を言ったのか聞き出そうと口を開いた瞬間に、頭の上に何か軽い感触が当たった。
 人いきれのなかに、甘い煙草の香りがする。
「少し、じっとしていろ」
 瞬は束ねられた羅依の髪を手に取り、向こうが透けて見えそうな薄布で包み込んだ。端を器用に結び、額にかかる前髪も布の内側に寄せて入れた。
「瞬……」
「お前の髪は目立ちすぎる。このくらいでちょうどいい」
 耳元で口早にそう言うと、瞬はほろ酔いの中年男を眼鏡越しに睨みつけたようだった。二言、三言を交わすと、男は急に黙り込んで、羅依からも顔を逸らした。
「ほら、羅依」
 瞬に腕を引かれて歩き出す。羅依は布がめくれないように手で押さえ、引かれるままに歩いた。
 薄布は濃い青紫に染め抜かれて、羅依の薄紫の髪をうまく隠していた。
「なあ、瞬。どこでこれを」
 問いかけは聞こえているはずだが、瞬は答えようとしなかった。もう一度、問いを重ねようとしたときに、色とりどりの布地を扱う露店が目に入った。見本に吊るされた布のなかに、似た質感の薄布がかかっていた。天幕が影を作り、遠目に色はわからなかったが、羅依には同じものだという確信があった。
 手首をつかむ瞬の手が、わずかにこわばったのだ。
 羅依は何も訊かずに、瞬に寄り添って坂を駆けた。追い抜くこともできたが、我慢をして半歩さがる。
 追いつけないのではない。
 追いつかない。
『だったらお前に背負えるのか』
 絶対に追いついてやらない。
 それが羅依の答えだった。
 いつまでもこの距離で瞬の背中を、横顔を見上げていたい。
 それが羅依の光だった。

(アンケートお礼)
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2009年03月15日

千切れた花びら

 日が暮れようとしている。室内の薄汚れた壁は、西日に照らされ赤く塗り替えられていた。
 羅依は、職員に連れて行かれる賞金首の男を見送り、窓口で手続きを済ませていた。廊下には男の罵声が響いている。
「たまには首だけでもいいんだよ」
 そばに立っていた、係りの男が言った。横目に見上げると、髪を短く刈り込んだ中年の男だった。羅依は言葉を返さずに、書類に向かった。
「あんただって、生かして捕まえる方が難しい場合もあるだろう」
「何が言いたい」
「いやまぁ、うちの区分に持ってきてくれるのは構わないんだけど、一応ね、収容室にも限界があるんだよ」
 男は頭を掻いて、低い声で言った。羅依は文字を書く手を止めて、男を睨んだ。
「だから、何が言いたい。ここへ持ってくるなと言いたいのか」
「違う。そうじゃないよ。あのね」
「室長、お客さんですよ」
 部屋の奥から呼ぶ声に、男は軽く手を上げた。ため息をついて、頭を掻く。
「まぁいいや。でも考えといてよ」
 羅依の肩を軽く叩き、男は小走りで部屋の奥に消えた。
「あの、気にしないで下さいね」
 室長の姿を目で追っていると、机越しに座る職員が小声で囁いた。肌の白い若い女で、よく見る顔だった。笑うと両頬に小さな笑窪ができた。
「室長てば、収容室の掃除当番が嫌なだけなんです。賞金首を受け入れれば手当金が出るんで、あれでもすごく喜んでるんですよ。悪い人ではないんです。ただちょっと、ものぐさなだけ。だから気にしないであげて下さいね」
「随分、庇うんだ」
 羅依は書類に向かい言った。
「そう、見えますか」
「まぁそれなりに」
「やだな、そういうつもりじゃないんですけど」
「じゃあ、どういうつもりで?」
 書類の記入を終え、羅依は数枚の紙を彼女に渡した。胸元の名札には、仄佳とあった。彼女は受け取った書類越しに羅依を見た。
「あの、何て言うか、あなたがこの地区に来なくなったら、寂しいから……」
 そう言って彼女は大きく手を振った。
「あ、別に、変な風に取らないで下さいね。気持ち悪いことはしませんから」
「はぁ」
 羅依は呆れて肩を落とした。意識したことはなかったが、この地区に来たときは、なぜかいつも彼女が処理を担当していた。
 仄佳は淡く頬を染め、書類の確認を始めた。
「だってね、ここに来る人ってみんな、大きな声では言えないけど、ちょっとね怖い人ばかりなんですよ。体の大きい人とか、いつも怒ってる人とか、一言も話さない人とか。私、何度も転職とか考えてるんです」
「はぁ……」
 仕事の手際は決して悪くはなかった。だが羅依にはとても長い時間に感じられた。こんな話を聞くためにここにいるのではない。仄佳は羅依の苛立ちに気付かず話し続ける。
「でもね、羅依君みたいな人に会うと、安心するんです。この人たちのおかげで、街が守られてるんだなって、素直に思えるんですよ」
 仄佳は書類全てに確認済みの印を押し、控えを羅依に返した。羅依は押し黙って、そこに書かれた金額を見た。これで当面の生活費が確保された。
「私には何の力もないけど、この仕事なら間接的にだけど少しでも街の力になれる気がするんです。街を支えるというか。そうしたら、私もただ守られるだけではないような」
 仄佳は机に封筒を置き、その上に紙幣と硬貨を並べた。細く白い指が、羅依の目に映る。羅依は思わずその手を取った。仄佳は驚いて顔を上げた。
「あ、あの」
「そんなに守りたいの」
「えと……」
 耳まで真っ赤にして、仄佳は瞬きを重ねた。
「私も役に立ちたいもの」
 困惑を隠せないまま仄佳は頷く。羅依は涼しい顔で彼女を見つめた。
「贅沢な話」
「え」
「俺は、誰かに守られるだけの存在になりたいよ」
「羅依君……」
 羅依は大人びた笑みを浮かべると、手を離し、稼いだ金を封筒に入れた。折って、担いだ鞄に突っ込む。
 仄佳は弱々しく手を握り、呆然と羅依を見上げた。闇を知らない無垢な瞳が、整合性を求めて彷徨っている。羅依は衝動的な行動を反省した。
「もし生まれ変わったら、お姉さんみたいな人になりたいかな」
「どうして」
「お姉さんみたいに、かわいくなりたい」
 鞄を担ぎ直して、胸の前におりていた淡紫色の髪を背中に払う。
「そして、守ってあげたいって、思ってもらいたい」
 視界の隅で、西日を受けた大きな硝子の扉が開いた。光が部屋を薙ぐ。羅依は目を細めて入り口を見た。
「大変だ! 鬼使からの予告状だ!」
 駆け込んできた若い男は、外を指差していた。入り口に人が集まる。羅依もその群集にもまれた。小柄な体を活かして表へ出ると、男が指差す先の空には光が刺さっていた。夕焼けの輝きにも負けない、激しいほどの煌きを放ち、それはまるで天を衝く柱のようだった。表面に文字が流れている。
「ここに天への道を拓く」
 羅依は書かれた文字を声に出し、知らず嘲笑を滲ませた。
「おい、鬼使を討ち取れば一生遊んで暮らせるぜ」
「馬鹿言え。どれだけ殺されたと思ってるんだ。行ってもどうせ無駄死にだ」
「でも、大勢で取り囲めば」
「山分けしても相当な金額だぜ」
「おい、話に乗る奴は他にいないか」
「俺も行くぜ」
「おう、俺も乗った」
 周りにいた賞金稼ぎは一団になって話を進めていた。何人かはその場を立ち去ったが、それでも参加した者の方が多かった。羅依は盛り上がる男たちを横目に、宿へと戻った。
 宿の中でも一番小さな部屋を取っていた。相部屋を避けようとすると、仕方のないことだった。壁際に荷物を投げ下ろし、固い寝台に寝転がった。
 天井を見上げると、先ほど見た光の柱が思い出された。
 強く激しい輝きだった。だが羅依には行き過ぎて千切れそうにも見えた。鬼使からの言葉は、彼の強がりにも感じられた。
 鬼使・瞬。突然現れた悪魔のような男は、俗界を一瞬で恐怖に染めた。触れずに人を殺せる。目を見ると気が狂う。様々な噂が飛び交った。それらはどれも信憑性があるようで、また同じくらいおとぎ話のようでもあった。
 本当にそんな存在があっていいものなのか。
 搾取し続け、何ものも失わずに生きていけるなど、あまりにも不公平だった。そんな存在はあってはいけない。
 部屋の窓から染みていた夕焼けはすっかり失せ、目は薄暗闇に慣れ始めていた。
 羅依は起き上がり、服を脱いだ。水を浴び、心を研ぎ澄ます。
 なぜ鬼使がここへ来たのかを考えてみた。なぜ鬼使が奪い続けるのかを考えてみた。
 どれだけ命を奪っても、彼に搾取した手触りはなく、たとえ世界を手に入れても、彼は何も持たない。それが彼の真実により近いとしたら、羅依は少し鬼使の気持ちがわかる気がした。
 寂しさに負けた心が、人を求める。だが、求めて触れた瞬間に自ら手放してしまう。

 二度と、失わないために。
 不意を突かれて、その手を振りほどかれないために。

 温もりはまるで短命な花のようだった。咲いたかと思えば、次の瞬間には変色し萎れていく。それが世界の摂理とわかっていても、枯れていく花を抱き続けることはあまりにも悲しかった。たとえ自らの弱さゆえだと知っていても、満開の花が道に連なることを夢見た。
 濡れた体を手早く拭い、胸に固い布を巻きつける。ささやかな膨らみは乱暴に押し潰された。服をまとい、髪を束ねる。上着の裏に短刀を確認し、羅依は荷物を担いだ。
 宿を出て、光が射した方へ走る。前へ進むほどに何かが失われていくのだとしても、求め続けるしかなかった。進まずにいることはできなかった。
 なぜなら、世界は立ち止まることを知らないから。
 立ち向かう風を切るごとに、羅依の足元には千切れて枯れた花びらが舞い落ちた。

(拍手お礼)
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