2013年05月17日

LOOKING BACK TO TODAY

 他人の目に映る自分は、どうやら必死さが感じられないらしいと気付いたのは、小学四年生のときだった。
 真面目にやりなさいと三十路の女教師に金切り声で怒られても、少年だった関谷は泣くことも怒ることもなく、ただ漠然と真面目に描いたんだけどなぁと画用紙を見おろしていた。
 そこには水で溶くことなく、まるで油絵のように絵の具を塗り重ねられた大阪城が描かれていた。



 就活課をひやかして、図書館に立ち寄り、特に腹も減っていないので学食を素通りすると、他に行く場所は部室しかない。
 大学生活五年目ともなると、友人とつるんだり、授業や提出物に追われたりすることがなくなる。そんなことを現役高校生の弟に話すと、冷たい眼差しでご隠居様と呼ばれるようになってしまった。あながち間違ってもいない。
 子どものころから特別に何かに執着することがないが、人と話したり、喜んでもらうことが好きだと進路担当に話していると、いつの間にか法学部志望ということになっていた。国公立はまったくの惨敗で、ひとつだけ受けていた私立に言葉通り滑りこんで今に至る。法曹界でのしあがろう、ビジネスに活かそうなどという志はなく、入学時には公務員になりたいと思うかもしれないと考えていたが、法学部生五年目になってもそのような気持ちは芽生えなかった。だからといって、他に特にしたいと思えることもない。家業の工場は兄が継いでいるので、親にせっつかれることもない。自分自身の望みのなさも含めてここまで自由だと、いっそ不自由だった。
 ただ、絵を描くことだけは好きだった。絵の具を幾重も重ねているときだけは、我を忘れて夢中になった。
 のろのろと部室まで行くと、扉には南京錠がかかっていた。誰もいないらしい。関谷は鍵をあけて、中へ入った。
 格子のついた窓は開いたままで、五月晴れの目映さが窓枠に染み出している。部屋には日が差さず、打ちっぱなしのコンクリートの床からは春の冷たさが立ちのぼる。肌に触れる空気はメンソールのように涼やかだった。
 パイプ椅子にかけて煙草に火をつける。今日の煙草は兄から拝借してきたのでマルボロだ。優等生ぶったそつのない味に、関谷は目を細めた。
 部室の隅に立てかけられた嶋の絵を見つめる。描きかけの油絵はまだぼんやりとしていて、生まれたての雛のようだ。どこへ向かうのかもわからずに佇んでいる。母である作り手が来るのをじっと待っているのだ。それはなんとも愛しい姿だった。
 思えば最近、あまり絵を描いていない。関谷は机に出しっぱなしになっていた怜平のスケッチブックを逆さにひらいて、いちばんうしろの画用紙に鉛筆を走らせた。何を描こう、どんな構図にしよう。そんなことを考えるそばから、どんどん手が動いていく。描きたいもの、見たいものを探りながら、それよりもっと早いスピードで線が繋がっていく。この手は、きっともう知っているのだ。関谷はそれを知るために、手指の好きにさせる。
 くわえていた煙草から灰が落ち、関谷は描く手をとめた。短くなった煙草を灰皿でもみ消して、スケッチブックを机に置く。そこには近所で鳩じいさんと呼ばれている老人の姿があった。老人は毎朝毎夕、小さな公園のベンチに腰かけて鳩にパン屑を撒いている。ときおり遠くに投げては、右往左往する鳩をにやにやと眺めているときもある。
「ええなあ、あれ」
 鳩じいさんになりたい、かもしれない。できれば今すぐなりたいが、じいさんであるという要件がまだあと半世紀ほどは満たせない。これだけは努力のしようがない。では鳩になればいいのか。いや、それも違う。
 関谷は新しい煙草に火をつけて、乱雑なラフ絵を眺める。今すぐ鳩じいさんになれないなら、せめてこの鳩じいさんに光と色を添えたい。帰ったら、余っているキャンバスに絵を描こう。ひとつ世界を描きあげたら、見えてくる願いがあるかもしれない。
 スケッチブックを閉じて、鞄と南京錠を引っ掴む。
「あ、せや」
 画材の入った抽斗から絵の具をいくつか選び、ありがたやと繰り返しながら鞄に放り込む。そこに大きく「嶋の絵の具!」と書かれているのは、見なかったことにした。

(拍手お礼)
posted by くまごろう at 00:00| マテリアル | 更新情報をチェックする

2013年01月01日

新しい光

 どんなときでも時間は流れて、人は世界は変わり続ける。それが当たり前だと人は言う。とてもつらいときだって、時間が解決してくれる、と。
 けれど実咲子はすべてがそうとは思わない。
 時間は均一に流れていくとは限らないし、一秒ずつの積み重ねが奇妙な引力を生むことだってある。
 まるで永遠のような一瞬。
 淀みなかった日々の流れをぐるぐるに掻き乱していくような一瞬は、たしかにあるのだと。



 アルバイト先の診療所を出た実咲子は、ブーツのかかとをカツカツと鳴らしながら走っていた。今年最後の夜の街は興奮気味で、あちらこちらの飲食店から賑やかな声が聞こえてくる。街中に広がる解放感に、実咲子の心もつられるようにして弾んだ。
 首に巻いたマフラーが肩からずり落ちそうになって立ち止まる。吐く息は白く、頬は氷のように冷たいのに、セーターの下はほんのり汗ばんでいた。時計を見ると、針は九時を過ぎている。まあいいか、と実咲子は歩き出した。
 メールに添付されていた地図を頼りに向かうと、地下へ降りる階段のそばに山崎の姿があった。彼女もすぐに実咲子に気づく。
「せんぱーい! こっちです、こっちこっち」
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「大丈夫ですよー。それより大晦日やのにやってる診療所なんてあるんですね」
「休日診療が売りだからねえ」
「え、ほんなら明日も?」
「ううん。明日は私がお休み」
「よかったー」
 とろけそうな笑みを浮かべ、山崎は続けて言った。
「先輩をべろんべろんに酔わしても大丈夫なんですね!」
「ザキちゃん、顔がおっさんになってるよ」
 実咲子の忠告など聞く様子もなく、山崎は実咲子の手を引いて階段を降りていった。
 半地下にあるダイニングバーは、翳りのあるオレンジ色の明かりに照らされ、真夏のような熱気に包まれていた。中央にはいろどりのよい料理が並び、ビュッフェ形式になっている。テーブルはすべて満席で、どこも子どものようにはしゃいでいた。
 壁際のテーブルには関谷、嶋、沙智がおり、嶋は真っ赤な顔をしてすでに出来上がっていた。
「遅れてしまってすみません」
「ああ、ええで気にせんで。シマイチはザキに昼間から引っ張りまわされて、深夜仕様なだけやから」
「嶋くん、おつかれ」
「おつかれさまれぇーす! ところでぇ、先輩はー、診療所ではナース服なんすかぁ?」
「ごめん、受付だからナース服じゃないけど」
「じゃどーっ! 邪道ですよぉおぉ。はあぁ、ナースに怒られたい……」
「すまん、相沢。まあ、座りぃや」
「はい」
 ちらりと山崎の顔を見やるとにやにやしていたので、何かいい加減なことを吹き込んだらしい。中学生男子がつるんでいるようなものなので、注意する気にはならなかった。
 コートとマフラーを椅子の背にかけ座ると、隣の沙智が肩をつついてきた。
「バイトお疲れ。ごはん取りにいこ?」
「うん」
 そろって料理の前に並ぶ。立ちのぼる湯気と香りに、一気に空腹を覚えた。
「うちもう、二週目やけど取りすぎかなあ」
「いいんじゃない? どうせ今日はみんな始発までぐだぐだするんでしょ」
「たぶん。二次会までには全員揃うやろか」
「え、まだ誰か来るの」
「ほら、秋にザキちゃんと付き合ってた……」
「ああ」
 実咲子は数ヶ月前にマテリアルへやってきた男の顔を思い浮かべた。
「あの色男か」
「松下くんやよ。実咲子ちゃん、苦手なタイプ?」
「うーん、何考えてるかわかんないよね」
「年上やねんて、うちらより」
「へえ。浪人……しすぎだね。医学部じゃあるまいし」
「なんか高校出たあとは働いてたんやって」
「詳しいね、さっちゃん」
「うん、こないだ偶然行ったショップで働いとってな」
「そうなんだ」
 サラダにドレッシングをかけて席へ戻る。
「あの人、悪い人やないで?」
「そうなんだろうけど」
 実咲子は返事に困りながら椅子に腰をおろした。悪い人でないからといって誰とでも仲良くできるわけではない。オーダーしたドリンクを待ちながら、レタスの束にフォークを突き立てる。
 まだほとんど話したこともない男の顔を思い出すだけで、心の奥がもやもやとする。飲んでもいないのに悪酔いしたような感じだ。
「もてるんだろうなってことは、よくわかるけどね」
「え、なんて?」
「ううん、なんでもない。よーっし、乾杯しましょう!」
「はいっ! ナース服にぃ、かんぱーい!」
 ナースやないんかと関谷に突っ込まれ、それから一時間、嶋は看護師と制服について延々と語り続けた。また始まったと呆れかえるなか、沙智だけが妙に真面目に聞いていた。嶋いわく、さっちゃんは天使らしい。
 新年三十分前になると、スタッフの動きが慌ただしくなった。カウントダウンの準備がはじまっている。各テーブルにはクラッカーが配られ、料理やデザートが次々入れ替わる。新しくセッティングされたグラスには、干支のシルエットがデザインされていた。
 不意に、背もたれに置いた鞄のなかで携帯電話が震えた。ごめんと席を立って手洗いへ行くが、電波が悪く途切れてしまった。仕方なく席へ戻るとまたかかってくる。実咲子はコートを掴んで店の外へ出た。
 画面には、先生という二文字が点滅していた。
「もしもし」
「あ、みさちゃん。切られたから嫌われたんかおもた」
「そんなこと思ってないくせに」
「なあ、僕のライター知らん?」
「知らない」
 冬の夜空は青く濃く澄んで、いまにも千切れそうなほど張りつめていた。酒で体が火照っているせいか、それほど寒さは感じない。
「そんな即答せんと、すこしくらい捜してよ」
「心当たりがあるの?」
「あるから電話してる。なくても電話したかったから、ライターには感謝してる」
「ばかみたい」
 淳の言葉はどこまでが本気で冗談かわからない。
「ランチしたときに上着をまとめて置いたやん。あのときにちょうど、みさちゃんのコートのポケットが僕のジャケットと口があわさっとって。ほら、キスするみたいに」
「せんせ、酔ってるの」
「大晦日だしね。だいぶ飲まされた」
 実咲子はため息をつきながら、はおったコートのポケットに手を突っ込んだ。指先に冷たい金属の手触りが当たる。
「あるよ」
「よかった。明日もバイト?」
「明日はお休み。でも朝いちなら梅田にいるよ。出てきてくれるなら返したげる」
 電話の向こうから、若い女の呼び声がした。たぶん、彼の妻の声だ。
「いまな、あっちの実家やねん。朝いちで梅田は無理やわ」
「わかってる。大事に保管しておきます」
「ありがとう。みさちゃんも飲みすぎんようにな。おやすみ、よいお年を」
「よいお年を」
 短く返して、実咲子は通話を切った。ため息はいっそう白い。すっかり冷たくなった手で携帯電話を握りしめ、壁にもたれた。すぐに店へ戻る気分にはなれない。いまの会話を何度も繰り返し思い出しては、そのたびに胸を痛めた。苦しいとわかっていながら、思い出さずにはいられない。彼の声を繰り返し聞いていたかった。
 待ち受け画面のデジタル時計は、規則正しく時を刻んでいく。だが実咲子はその流れについていけず、五分前の世界に置いてきぼりだった。
 時間を巻き戻せたら、また彼の声が聴けるのに。
 もっともっと巻き戻したなら、自分だけの彼に会えるのに。そうしたら、嫌いになることもできたかもしれない。喧嘩をして、別れて、結婚したらしいよと風の噂に聞いて、ふうんと言って懐かしむこともできただろうか。
 ひとつ許して、受け入れてしまったときから、実咲子は淳を嫌いになるという選択肢を失ったのだった。
「ミサコ先輩?」
 突然声をかけられ、顔をあげると目の前には見覚えのある顔があった。
「ああ、たしか」
「松下です、こんばんは」
 名前を憶えられていなかったにもかかわらず、松下怜平は笑顔を浮かべた。
「場所、ここであってますよね」
「うん、みんな下にいるよ」
「ありがとうございます」
 怜平は接客スマイルで階段を降りていった。まるでマネキンが街を歩いているような格好で、丁寧な物腰。ああいう男と付き合うと大変だろうなとぼんやり思う。自分とどちらが大変だろうかと考えて、声にするのも億劫なため息が喉を通っていく。
「先輩」
 呼ばれて階段を見下ろすと、怜平の手には実咲子のマフラーがあった。
「落ちてましたよ」
「あ、ありがとう」
 コートを掴んで出てきたときに、一緒にくっついてきたのだろう。
「なんで私のって?」
「いや、だって、先輩に似合うから」
 実咲子は思わず閉口して、冷やかな薄笑いを浮かべた。
「あれ、先輩?」
「松下くんのコートもよくお似合いで」
「ありがとうございます。職場の先輩に恵んでもらったんですけどね」
 いっそうきらきらとした笑顔を向けられ、実咲子はすっかり気が萎えてしまった。マフラーを受け取り、握ったままだった携帯電話をポケットにしまいこむ。中でかつんとライターに当たる。
「いこっか」
「待って先輩」
 口元に人差し指を立て、しっと呟くと、怜平は目を細めて耳を澄ました。
「聞こえませんか?」
「なにが」
「除夜の鐘」
「まさか。こんなに騒がしいのに――って、ちょっと」
 腕を強引に引っ張られ、階段の上へ連れ戻される。
「ほら、やっぱり聞こえますよ」
 あまりにも無邪気にはしゃぐので、実咲子はしぶしぶ耳をそばだてた。きんきんに冷えた音の世界に、熱っぽい喧騒が落ちる。車が行きかう音、人々のざわめき、その向こうにかすかに響く静けさがあった。
「あっ」
「ね」
「聞こえた」
 思いがけず届いた鐘の音に、不思議と嬉しくなる。さらにもうひとつ、夜空に重く広がっていった。
「私の煩悩も払えたかなー」
「たぶん大丈夫ですよ。先輩の煩悩ってどんなのですか」
「うーん」
 心にはすぐに淳のことが思い浮かんだ。だがさきほどの電話の声はもう思い出せない。
「払われたからわかんなくなっちゃった。松下は」
「おなじくです」
「ずっこい」
 ふたりで向かい合ってにやにやとする。ただの色男かと思っていたが、それだけではないのかもしれないと、ふと感じた。
「先輩、あけましておめでとうございます」
 大きな手が差しだされる。
「今年もよろしくお願いします」
「あけましておめでとう」
 実咲子は戸惑いながら怜平の手にそっと触れた。泡を握るような握手をして、実咲子は首をかしげた。
「去年よろしくした覚えはないけど、よろしくね」
「はい」
 そのたった一瞬の笑顔に振り回されることになろうとは、そのときの実咲子は知る由もなかった。
 たった一秒が。
 いつまでも消えない温もりになった。

(新年SS)
posted by くまごろう at 00:00| マテリアル | 更新情報をチェックする
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