2017年03月19日

やわらかな檻

 会ったばかりのおとこの腕に抱かれながら、沙々奈(ささな)は宇宙空間が広がる天井を眺めていた。耳のそばではおとこの腕時計がかちかちと鳴っている。午前二時を回ろうとしていた。
 いまごろ兄はどうしているだろうかと目を閉じて姿を浮かべる。すこし癖のあるやわらかな髪、肉の薄い頬、体温を感じさせない手首、低すぎない声、鋭くて優しい一重まぶたのまなざし。死んだ父に年々似てくると母は言うが、沙々奈には父の記憶がほとんどない。兄の姿も声も沙々奈にとっては兄だけのものだった。
 秒針の響きの向こうで、沙々奈ちゃん、と繰り返し呼ぶ声がする。兄とは似つかない甘い声だった。けれど兄も彼女にはこんなふうに囁くのかもしれないと思うと、途端に指先まで熱くなり息があがった。あんまり苦しいので大きく息を吸う。たまらず、かぼそい声が洩れた。
 急によくなったね、ごめんもういいかなとおとこが繕うように笑うので、沙々奈はかすかにうなずいた。このままでいいのと何度も確かめてくるのがうっとうしくて両手で耳を塞ぐ。まぶたの裏や耳の底にいる兄が消えてしまうから、なにも言わないでほしかった。勝手にしてよと掠れた声で言い返すと同時に涙がひとすじ流れる。いつしか兄の姿が見えなくなっていたことに気づいた。
 空調のかすかな風が腹を撫でていく。背中へと沈殿していく濡れた砂のような重みを他人事のように傍観しながら、沙々奈は小さくため息をつく。それだけで胸はすっかりからっぽになった。
 シャワーを浴びているあいだに、兄に会いたくなった。一度そうなるとどうしても我慢できない。引き留めようとするおとこと言い合いになり乱暴に髪を掴まれたが、つま先の尖ったパンプスで脛を蹴りつけ逃げ出した。
 自動ドアの外はひどく蒸していた。霧のように細かな雨が降る。いつまでも灯り続けるたくさんの明かりが雨滴に映って乱反射した。沙々奈の肌にも明るいばかりの白い光が落ちる。光は膨張する。ほんの小さな明かりでも、暗闇が深いほど濃く、遠くまで届く。そうやってこの街は光に満ちている。
 これからどこへ行くのと体を寄せてくる客引きを無視して、兄の部屋へ向かった。外から部屋を見上げる。明かりはない。仕事だろうか。時刻は三時を過ぎていた。
 寝ているだけかもしれないと部屋の前に立ちインターホンを押してみる。からっぽの空間に何重にも響いて、やがて煙が消えるように静かになる。五分待っても十分待っても、ドアがひらくことはなかった。
 マンションやビルが邪魔をして、たかが三階の廊下からでは世界はすこしも広がらない。身を乗り出すと街の隙間に逃れた暗がりが明かりのなかでひっそりと息をしていた。足取りのおぼつかない酔っ払い、破れたビニール袋からこぼれる生ごみ、骨の折れた傘、暗闇をまとって颯爽と走る猫。そういった景色を目にすると沙々奈はすこし落ち着いた。スカートの裾を気にすることなくその場に座り込み、兄の帰りを待つことにした。
 もっとずっと子どものころにも、家の鍵を失くしてしまい兄を待っていたことがある。ランドセルをおろしてドアにもたれて鉄柵のあいだから辺りを眺めていると、行き交う人の姿がなく、風が吹かず空も滞り、停止した世界のなかで自分ひとりだけが生きてしまっているような気持ちになった。兄も母も、もう帰ってこないかもしれない。鍵さえ失くさなければ世界に取り残されることもなかったと思うと情けなくなった。太陽が傾きはじめるころになってようやく制服姿の兄が帰ってきて、すっかり冷えた手を大きな両手で包み込んでくれた。
 あのときはお気に入りのブラウスとカーディガンを着ていたから晩秋だった。おなじように膝を抱えてみる。梅雨特有の湿気がまとわりついて、ときおり触れる夜風が心地いい。悲しいほどあのころのような寂しさは感じられなかった。むしろ待っているあいだだけは、自由だった。
 エレベーターのとまる音がして足音が近づいてくる。兄の都々(みやと)だという確信があった。
「沙々奈?」
 呼びかけられるまで眠っていたように装いながら沙々奈はのろのろと顔をあげた。
「おかえり、おにぃ」
「おまえなにしてんの」
「始発までまだ時間あるから、おにぃのとこで寝ようと思って」
「学校は」
「昼からだから大丈夫。ただ昨日レポート書いてたせいで寝不足」
「だったらちゃんと終電までに帰れよ」
 眉をしかめて冷たく沙々奈を見下ろしながら、都々は部屋のドアを開ける。沙々奈は膝をゆるく抱えたままじっと兄を見上げていた。目を逸らしてはいけない。やたらと微笑んでもいけない。そうしていると、都々は疲れきったため息をついて手を差し出した。
「ほら」
「ありがとう、おにぃ」
 強く引かれて立ち上がる。掴んだ兄の手は乾いていて、皮膚よりもその奥の肉や骨があたたかく感じられた。
 繋いだ手を見つめて都々がぽつりと問う。
「いつからここに」
「わかんない。三十分くらい、かな」
「そう」
 冷たい手と呟いて都々は大切そうに手を離した。
 部屋のなかは日中の熱が降り積もっていた。沙々奈は断りもせずエアコンをつける。都々はシャワーを浴びるといって部屋の片隅で山になっている洗濯物からタオルと下着を持っていった。洗いたてのスウェットが上下揃っていたので、沙々奈は遠慮なくそれに着替えた。
 ここには家のにおいというものがない。一日のほとんどの時間を職場で過ごすからか、荷物が少ないからか、兄の部屋にいるという実感はあまりない。けれどスウェットからは乱暴な洗濯洗剤の香りに混じって兄のにおいがする。顔をうずめると兄に抱きしめられているように思う。沙々奈は胎児のように体を丸めて敷きっぱなしの布団に転がった。
 ずっとここにいられたらいいのに。
 カーテンを開けて明かりを消す。外からの光だけで部屋を眺め、この狭いワンルームでふたり暮らす姿を想像してみる。実家も1DKの小さなアパートだ。はじめは窮屈に感じてもすぐに慣れるはず。喧嘩はたくさんするだろうが、そのたび仲直りできる自信が沙々奈にはあった。掃除や洗濯は実家でもやっているし、苦手な料理はすこしずつ覚えていけばいい。兄はなにがあっても沙々奈に手をあげないし、どんなわがままだって最後には聞いてくれる。沙々奈も兄のためならなんだってできた。きっと仲良く暮らしていける。
 ただし、それらはすべて兄妹を越えない。
 シャワーから戻ってきた都々は沙々奈がスウェットを着ているのでTシャツを引っ張り出し、先ほど脱いだジーンズを再びはいた。布団は沙々奈が占領していたので、クローゼットから取り出した毛布を敷いて横になる。都々はおやすみという間もなく眠りに落ちた。
 兄の呼吸がかすかに聞こえてくるだけで幸福感でいっぱいになる。それなのに満たされない思いも強くなる。やがて飢餓感だけが沙々奈の胸のうちを占めた。
 沙々奈は起き上がり、眠る兄の顔を見つめた。あまり似たところのない兄妹だが、すこし薄い唇のかたちだけはおなじ血を感じさせた。沙々奈にとってはコンプレックスの唇も、兄には魅力でしかない。この唇が話したり、食事をしたり、微笑んだりする以外のために使われるときを思うと気が狂いそうになる。
「おにぃちゃん」
 子どものころのように呼びかけるといっそういとしさが募った。何度も何度も呼びかけているとたまらなくなった。人差し指でそっと唇に触れてみる。うっすらとひらいた部分から兄のものであった息がこぼれて指を湿らせていく。沙々奈は吸い寄せられるようにして、ためらうことなく口づけた。
 背中に流していた髪が肩をすべり、兄の頬や首へ落ちていく。都々は眉をしかめてのろのろとした手つきで振り払おうとする。沙々奈がようやく顔をあげると待っていたように都々は目をひらいた。
「なにしてんだ、はやく寝ろよ」
 唇には兄の感触が残っている。いつから起きていたのか訊きたい気持ちを飲み込むと、代わりの言葉がすり抜けていった。
「おにぃは彼女とかいる?」
「答える必要なし」
 きっぱりした拒絶に息が詰まりそうになる。沙々奈は、あーとかへーなどと言って呼吸を整える。
「いるんだ。わたしよりかわいい?」
「意味がわからん。寝ないなら帰れ」
 あくびを噛み殺しながら兄は寝返りを打とうとする。沙々奈は慌てて手を伸ばした。
「ねえ、おにぃ」
 引っ掻くようにして兄のTシャツを掴む。
 他の誰にも渡したくない。沙々奈のためだけのおとこでいてほしかった。
「もしわたしが妹じゃなかったら」
 言葉にしてから、はっと我に返る。
「なんだよ」
 眠たげだったまなざしに静かで優しい光がにじむ。
 なぜ急にそんな目をして見つめるのか。沙々奈の想いに兄はどこまで気づいているのか。言葉の続きを言ってしまってもいいのか。
 吐き出してしまいたい。この苦しい想いから解放されたい。
 そう思うほど言葉は体の底のほうへと沈んでいく。兄妹という檻は疎ましいが、ここに繋がれているかぎり兄と離れることもない。
 沙々奈はぎりぎりと絞められるような苦しさをこらえて、へらっと笑った。
「なんでもなーい。おやすみ」
 背を向けて寝る振りをする。しばらく視線を感じたが、やがて兄は眠ったようだった。
 なんでもない、なんて。なんて見え透いて甘ったれた嘘だろう。ばかみたい、と唇だけで呟くと涙が止まらなくなった。
 窓辺から夜明けが染み入る。
 泣き疲れてぐったりと横になっていたが、ひどい空腹で起き上がった。冷蔵庫にはミネラルウォーターとマヨネーズと小さなレジ袋しかない。袋には先日発売したばかりのコンビニスイーツと水玉模様のメモが入っていた。職場でもらった差し入れのようだった。丸っこい女の手で、お疲れさまですと書かれていた。
 窓を開けて、小さなベランダへ足を投げ出す。メモは丸めて外へ投げた。音もなく明けていく空を見上げながら、沙々奈はプラスチックの蓋を開けた。




テキレボアンソロ「嘘」に提出した、「世界の終わりを君とおどる」の過去編。
やりとりの一部は、本編作中に回想として出てくるものです。
ただ本編では都々の記憶と肉体を持つ者の視点なので、雰囲気はいくらか違うのでは?と思いつつ。
個人的には、本編であまり書くことのできなかった都々の外見描写ができてよかったです。

posted by くまごろう at 16:35| 世界の終わりを君とおどる | 更新情報をチェックする

2013年11月11日

11月11日

 自分の声も聞こえないような騒音のなかにいた。
「ねえ、柚木」
 インカムからマネージャーの声が聞こえた。通路の端と端とで視線を交わす。彼女は昨日の夜と同じ目をして笑った。
「今日はもう上がっていいよ」
「でも俺、シフトでは――」
 都々がそこまで言うと、彼女は口元に人差し指を立てた。声がないまま、家で待っててと口が動く。
「わかりました。お疲れさまでした」
「はーい、おつかれー」
 ひらひらと手を振りながら、彼女は床に落ちた煙草の吸殻を拾って去っていった。
 兄ちゃんこの台全然出ねえじゃねえかと絡んでくる酔っ払いを笑顔であしらい、都々はバックヤードへ戻った。音の嵐から解放されても、耳の奥に残響が流れ落ちていく。インカムを外してネクタイを弛めると、途端に今夜もマネージャーに会うのが億劫になった。テーブルの上に置かれていたポッキーを乱暴に噛み砕き、のろのろと着替えはじめた。面倒なので煙草くさいシャツはそのまま、スラックスをジーンズにはきかえる。ジャケットから携帯電話を取り出して、かわりにポッキーの箱を差しこんだ。
 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。冬の午後六時は人をひどく憂鬱にする。
 電話をひらくとメールがいくつか届いていた。そのなかのひとつは沙々奈からのものだった。
『これからユカちんと映画観にいくよ。おにぃの仕事の近くんとこ(ふかふかでキレイだからお気に入りなの!)……でね、もし仕事なかったら一緒にご飯しよ? お母さん今日は仕事遅くなるらしいんだー。映画、六時半には終わると思うから、返事ちょーだいね! かわいい妹より』
 沙々奈からのメールは絵文字やデコレーションの洪水だ。都々は一切使わないので、おにいっていつもメールで怒ってるよねと言われる。怒ってなどいない。ただ、絵文字では自分の気持ちを伝えられないだけだった。絵文字だけではない。どんな言葉も都々の心を表すことはない。都々自身がそれを望んでいなかった。そもそもこれはあってはいけない思いだ。
 返信しようとした親指がふととまる。マネージャーに家で待っててと言われたことを思い出したのだった。人が増えてきた目抜き通りを歩きながら、都々は雑踏にため息をこぼした。
 ぼんやりと人の流れに流されていると、沙々奈のいる映画館が四つ角に迫っていた。マネージャーの部屋へ行くなら、映画館の手前の細い道を左へ折れねばならない。
 都々は自分の真意から目をそらし、人々の歩みに流された。
『いいよ。映画館前にいる』
 さらに向こうへ行く人のあいだを縫って、映画館へ辿り着く。公開映画一覧をざっと眺めてから、エレベーター前の壁にもたれかかった。行き交う人々は誰も足早で、男も女も、老いも若きも、誰もがさきほどまでの都々のように人波に歩かされていた。誰が作り出したかもわからないスピードを、みなが律儀に守っている。それに反抗するものは見当たらない。だが流れの外へ出てしまうと、ひどく滑稽に思えた。
 なんとしても守らねばならない暗黙のルールなど、はたして本当に存在するのだろうか。
 なんとしても隠さねばならない本当の気持ちなど……。
 都々はポッキーをくわえて、折った。
 視界の端でエレベーターの扉がひらく。六時半にはまだ早い。都々は急に空腹を覚えはじめ、次のポッキーに手を伸ばした。指でつまんでいるのがわずらわしくなり、口にくわえたまま食べた。唇の体温でチョコレートが溶けていく。
「わたしにもちょうだい」
 声に驚いて下へ視線を向けると、くわえていたポッキーに制服姿の沙々奈が食いついてきた。都々はうっかり口をあけてしまい、ふたりのあいだにあった部分が足元へ落ちた。
「あー、もったいなーい」
「びっくりさせんな。それより早かったな」
「うん、エンドロールになったから先に出てきちゃった」
「なに食いたい」
「今日ちょっと寒いからお鍋とかがいいなー」
「んじゃ、居酒屋にするか」
 頭のなかに店をいくつか思い浮かべながら歩き出そうとすると、沙々奈に腕を引っ張られた。
「なんだよ」
「ついてるよ、おにぃ」
 沙々奈は自分の唇を指し、そこを舌でぺろりと舐めた。赤い小さな舌は、黒に近い濃紺の制服とグレーのカーディガンを着た無彩色の彼女に、閃光のような彩りを与えた。
 腕を絡ませてくる沙々奈を払いながら先に人波へ飛び込む。唇を舐めると甘いチョコレートが舌にしびれるようだった。

(拍手お礼)
posted by くまごろう at 00:00| 世界の終わりを君とおどる | 更新情報をチェックする

2013年10月26日

スパイス

 狭いキッチンにふたり並んで立つと、時おり腕と肩がこすれあった。肌と肌のあいだには互いの汗がまとわりつき、触れながら舐めあっているようでもあった。断罪はそのたびに軽く奥歯を噛みあわせた。
「沙々奈、人参」
「ちょっと待って、まだ全部切れてない」
「無理に大きさ揃えようとするなよ」
 手を休めるとすぐ鍋底に焦げ付いてしまう鶏肉と玉葱を炒めながら、断罪はTシャツの袖口で頬の汗を拭った。キッチンは風が通らず、換気扇も音ばかりで弱々しく、全身から汗が滝のように流れた。火元の前はさらに暑い。
 だが沙々奈の包丁さばきを見ていると、その暑さも寒気に変わる。あまりにも危なっかしく、見ていられない。
「やっぱりおまえが炒めろ」
「う……だ、大丈夫」
 声を震わせながら沙々奈は鮮やかな人参を切り分けていく。その手元が急にぐらついた。あっと短い声がもれる。包丁の切っ先は人参の上をすべり、沙々奈の白い指先を掠めていった。
 断罪の視界に、これまで繰り返してきたいくつもの命の、その終わりの景色が陽炎のように揺らめいた。断罪はたまらず沙々奈の手をとり、傷を口に含んだ。
「お兄ちゃん……」
 沙々奈は驚いたようだったが、拒むことはしなかった。断罪は歯の裏に当たる沙々奈の爪をやわらかく感じながら、舌で指先を包み込んだ。口の中には痺れのように沙々奈の血の味が広がっている。甘く、苦い。沙々奈は息をとめているようだった。その姿があまりにいじらしいので、断罪はそっと指を放してやった。
「気をつけろよ」
「うん」
 もう片方の手で指先を覆いながら、沙々奈は小さく微笑んだ。それはささやかだがたしかな幸福のため息だった。断罪はどんな顔をすればいいのかわからず、眉間にしわを寄せた。
「絆創膏、貼ってくるね」
「ああ」
 喉に残る血の味と、夏の蒸れたにおいが混じって、素手で情動に触れられるような心地がした。そこへ、焼かれたタイヤのようなにおいが分け入ってきた。
 断罪ははっと気づいて鍋の火をとめた。
「あぶね……」
 かろうじて炭にならずに済んだが、今夜のカレーはとても個性的な味になりそうだった。

(拍手お礼)
posted by くまごろう at 00:00| 世界の終わりを君とおどる | 更新情報をチェックする
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